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古今要覧稿
時令
はつき〈八月〉 はつきは八月の和名なり、葉月などもかけり、さて此月の名の始てみえしは、戊午年秋八月甲午朔乙未、天皇使徴兄滑及弟滑と〈日本書紀〉書しるされたれど、五月蠅の文字、既に神代の巻に出たれば、其時代に月々の名目ありしもしるべからず、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地と〈万葉集巻一〉記せるは、朱鳥の年号天武天皇の御宇なれば、神武天皇の御代より、遥に年歴へだたれり、又万葉集の歌に、みなつき、ふ月、長月などの名目はよめれど、は月とよめる歌みえず、後撰和歌集に、は月ばかりに、又は月なかの十日計になどみえ、八月、はつきと〈秘蔵抄〉いへれど、此月の名義お沙汰せるは、奥義抄に、八月木のはもみぢておつる故に、葉落月といふお、よこなまれりといへるぞ初なる、漢武帝の秋風辞に、秋風起兮白雲飛、草木黄落兮雁南帰、とあるによれるか、黄落の字、葉落月の義に合り、雁南帰の字、久方の雲井のかりのこしぢより初てくるやはつき成らん、とよめるに合り、下学集、日本歳時記、歳時語苑等、皆此説によれり、秘蔵抄歌に、初雁の声きこゆなりはつき立朝の原のうす霧のまに、又新撰六帖為家卿の歌に、久方の雲井のかりのこしぢよりはじめてくるやはつき成らん、とあるに、類聚名物考、月令お引て、此月初めて雁の来れば、初来(はつき)月なるお、辞おはぶきて、はつきとはいふなるべしといへるは、秘蔵抄の歌とあへり、亦一説は葉月、稲葉月也、稲葉茂るお雲ふと〈跡部光海翁説〉いひ、八月お波月といふは、保波利月の上下おはぶきいへり、稲は皆八月穂お張也と〈語意〉いへり、本居宣長も語意の説にしたがへり、〈委細に古事記伝訶志比宮の巻に、弁じ置けり、〉さて以上三説お合せ考ふるに、古説新説ともに何れも理りなきにしもあらねど、秋三月は稲の成熟する次第もて解かたしかるべし、所謂七月おふくみ月といふは、穂莟むおいひ、八月は穂張りみのる義もて名付る也、いかにとなれば、秋といふ名は、百穀成熟の時おいふ、穀物のあき満る義にとれるなれば、かた〴〵秋三月は、稲の事もてとくかたしかるべし、さて此月の異名お、さヽはなさ月と〈秘蔵抄〉いひ、木染月、草津月と〈莫伝抄〉いひ、秋風月、月見月、紅染月と〈蔵玉集〉いへるも、和歌よりいでし名目なり、橘春といふ名目は、漢名なるべけれど、出所詳ならず、たヾ日本歳時記にみえたれど、たしかなる書に未見当、雁来月、燕去月などいふは、世俗の称する名目にして、古書に載ざれども、仲秋之月、鴻雁来賓と〈礼記月令〉いへるによりて名付し也、燕去月と雲は、玄鳥帰と〈同上〉いへり、〈玄鳥は燕お雲〉雁来月に対して名付しなり、秋半ととなふるも、八月は秋三月の半なればなり、あけば又秋の半も過ぬべし、とよまれたる、定家卿の詠などにもとづきて、名付しならん、新撰六帖はつきの歌に、秋もはや半になれやと、衣笠内大臣〈家良公〉もよまれたり、