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東雅
一天文
春とは、草木の芽はる時なればはるといふ、古語にははらくといひしは、もえ出るおいひし也、秋とは、草木の色かはりぬる時なればあきといふ也、古語にあきといひしは、黄なる色おいひし也といふ説あれど、草木のもえ出るお芽もはるなどいひしは、春といふことば、黄ばむ色おあきなどいひしも、秋といふことばによりていへる也、たとへば物お販(ひさ)ぐおあきものといふことのごとし、はるとのみいひ、あきとのみいはんに、いかにしてかは、草木のもえ出て黄葉する義也とは、わきまへしるべき、開の字読てはらふともほるともいひけり、原おはらといふも開なり、しかるに今も筑紫の人は、原おいひてはるといふ也、これら方言にはあれど、はるといふは開の義なる事の徴とはなしつべし、ほるといひ、はるといふがごときも、また転語也、あつといひ、なつといふがごときも、もとこれ転語にして、またなといふ也、ことばお長く呼時は、おのづからあといふ語こもれり、又ひゆといふ語おこめたり、これらの事は、注するにも及ぶべからざれど、なつといひ、ふゆといふ、あつといひ、ひゆといふ義也といふ事、意得ぬ事也といふ人もこそあれと思へば、事煩しけれど、こヽに注しぬるなり、