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日本歳時記
六十一月
冬至は十一月の中なり、三至とて一には陰極の至、二には陽気始て至、三には日行南に至る、此故に至日ともいふ、冬至の前一日に至りて、陰気長ずる事きはまり、日のみじかき至りなり、又夜長き事もきはまれり、日の南に至るもきはまれり、今日一陽来復して後陽気日日に長じ、日もやうやく長くなる、陽気の始て生ずる時なれば、労動すべからず、安静にして微陽お養ふべし、閉戸黙座して、公事にあらずんば出行すべからず、又奴僕おも労動せしむる事なかれ、易曰、雷在地中復、先王以至日閉関、商旅不行、后不省方、白虎通曰、此日陽気微弱、王者承天理物、故率天下静不復行役、扶助微気成万物也、伊川易伝曰、陽始生甚微、安静而後長、故復之象曰、先王以至日閉関、朱子曰、一陽初復、陽気甚微、不可労動、 今日糕お製し家人奴僕等にもあたへ、陽復お賀すべし、又先祖考妣の霊前にも献じ、茶酒おそなへ、新果おすヽむべし、 冬至の日鑽燧改火ば、瘟疫お去と、続漢書礼儀志に見えたり、燧お鑽とは木おもみて火おとる事也、杜子美が冬至の詩に、 天時人事日相催、冬至陽生春又来、刺綉五紋添弱線、吹葭六管動飛灰、岸容待臘将舒柳、天気衝寒欲放梅、雲物不殊郷国異、教児且覆掌中杯、〈◯下略〉