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八朔考
一五節供の称、旧記に見えず、たヾし節供とは其日にあたりて膳お供するの義なり、庖厨の料は、詳に延喜式に見え、内膳司の管する所なり、此儀は禁中のみにあらず、公卿の家々にも慶賀あり、節句と書たるは、寛永後の年中行事類の書に、きく重の御節句とあり、恐らくは仮借なるべし、又年中行事等の古記に載る所、節供の日数は、正月三元日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日なり、此日お祝する意は、草木子に、皆以奇陽立節、偶月則否、此亦扶陽抑陰之義也とある最的当なり、十一月に祝日なきは、其数始にかへる故なるべし、其中重三日の曲水、七月初七の乞巧は、皆嘉辰雅遊のため、桃花菊蘂は、文人騒客の時物お愛するより出たる事なるお、却て桃の節供、菊重の祝ひと名づけしは本意お失へり、もと節供といふは、節会の供膳にあらず、故に踏歌豊明等の日、供膳の設なく、節会なき時も節供あるお考ふるに、五節は奇陽お貴ぶの意に出たる事、おのづから草木子の説に符合するものか、文安二年、沙門行誉が記せし壒嚢抄に、五節供の事異説多し、慥なる日記には五節供と雲詞不見、心は侍りとありて、前に出す年中行事節供の日お載せ、五節供と雲べくは此月日なるべしと記し、同書に、或は元日お除きて七日お加へ、七夕お除き亥日お加へ、又は十一月十一日お加へて六度とするは当らざる由お論ぜり、されども近来、七日お五季の一とするもの多し、若菜の祝ひの事、いにしへは上の子の日お用ひて、七日と定らず、宇多天皇寛平八年閏正月六日、子日の宴ありし事、扶桑略記に見え、菅家文草に、此時扈従せられし事お記して、倚松根以摩腰、和菜羹而啜口とある、子日の証とすべし、たま〳〵七日に設けしは、延暦十一年なり、天暦四年二月廿九日にも若菜お奉りし事あり、唯禁中古来より七日の大儀は、白馬の節会にて、小陽の日陽獣お御覧ある由縁なり、立春に若水飲み、子の日に若菜お喫するがごとき、皆新年に齢お延る祝賀の一事なりしお、中古に至り、たま〳〵人日にあたれるより因循し、又荊楚歳時記に、正月七日為人日、以七種菜為羹といふ説によりて、遂に七日の事と定まりしならん、武家に於ては、白馬の節なければ、隻中古の例によりて、七種の菜羹お祝ふまでにて、節日といふにはあらず、元和二年正月、この祝ひの旧儀お搢紳家に尋ね給ひし時、諸家より記し進らする所的当ならざるにより、隻世俗の流例にしたがひて定め給へり、此時一条家にては、人日の説お主として、五節供のはじめなるよし記し出されたる、杜撰といふべし、これらの説に雷同せしか、寛文十一年の柳営年中行事、及び諸記録に、多く五節供の一とするは誤なり、殿中七日儀式お考ふるに、上巳端午のごとき盛礼にあらず、令条に年始五節供とあるは、歳首の大儀は規模盛大にして、余日に比准しがたきにより、ことさらに提記したるお、世人やヽもすれば、五の字に泥みて七日お加へ、或は八朔お其一とするものあり、故に今八朔の来由おしるす因みに聊筆記して、五佳節の一は正月三元なる事お弁ず、〈◯中略〉
  天保癸巳季冬上浣       安藤熟之述