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我国年号お建てしは、孝徳天皇の大化お以て起原とすれども、其後五十余年の間、或は建て或は建てざりしに、其相継ぎて絶えざるは、文武天皇の大宝以後なりとす、されども当時改元することは、概して数々ならざりしに、中世に至りては、一天皇の御宇に七八度に及べるあり、其年数の如きも、短きは一年に及ばずして改元し、長きは三十余年に渉れるもあり、而して一皇一元の制は、明治改元の詔に始まる、
改元には、代始改元、祥瑞改元、災異改元、革命改元、革令改元等の別あり、改元定は朝廷の重事にして、其式は略々一定したり、即ち改元の前数日に、年号勘者宣下ありて、式部大輔、文章博士、及び其任に勝へたる公卿等おして勘文お献らしむ、勘文は経史に拠りて、好字お択ぶものなり、既にして諸卿お召し集めて仗議せしめ、互に其優劣お論争す、之お難陳と謂ふ、難陳の語は、蔵人に付して奏聞し、聖旨お待ちて之お決す、改元定の前に、必ず条事定の式あり、又改元定の後に、吉書の奏あり、此等の事、本と改元定には関係せざることなれども、中世以後は、全く恒例として之お行へり、
年号にして正史に見えず、僅に金石文に存するもの、又古き年代記、古社寺縁起等に記されたるものあり、之お逸年号と謂ふ、多くは僧徒輩の偽作に係ると雲ふ、又後世乱離の際、政令遠遐に遍からずして、辺土の民、私に異号お用いしことあり、之お偽年号と謂ふ、今併せて逸年号の後に載す、