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荏柄天神縁起
小松天皇の御孫、延喜の御門にはいとこにて、右大弁公忠と申人おわしけり、延喜二十三年卯月の頃頓死して、両三日といふによみがへり給ひて、家の人々につげていひき、我お具して内裏へ参れと、きく人々物にくるふと申あひけり、されども其詞ねむごろにて、あながちに申ければ、子息信時、信孝、二人にたすけひかれて、内裏へまいりて、このよしお奏申給ければ、延喜の御門おどろきさわぎて、出向給ひしに、奏申給やうこそおそろしくは侍れ、公忠頓死して、炎魔王宮にまいりて、門のまへにてしばしみる程に、長一丈余なる人の、身には束帯うるはしくして、手に金の文夾に文おさしはさみて、さしあげてうたへ申お、耳おそばだてヽ承りしかば、延喜の御門の、しわざともやすからずと、さま〴〵に詞おつくして、うたへうれへしに、菅丞相とはさとりぬ、其時、緋や紫まとひたる冥官三十余人、ならび居たりしが、第二座に居たる人、少しあざ笑ひて、延喜の帝こそ頗荒凉なれ、若改元もあらばいかヾと申されし也と、奏申て還り給にき、御門是おきこしめして、おそれ思食事かぎりなく、さて四月廿一日、菅丞相おば、如元右大臣として、一階お加へて正二位おも贈り給ける、やがて昌泰四年正月廿五日の宣旨おやきすてられにけり、五月廿五日、延喜の年号お改て、延長となされし事は、このゆへなり、〈◯又見北野縁記、太平記等、〉