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改元物語
其四年〈◯万治〉に当る正月十五日、内裏炎上す、改元あるべき旨、京兆尹牧野佐渡守親成より江戸へ言上す、執政老臣相談にて、万治の改元は江戸の火事に由てなり、然れば今度内裏の炎上に因て改元あるべきとの勅定なれば、武家よりとかく仰らるヽに及ばずとの旨也、此に因て三月下旬、東坊城、五条、高辻三家の勘文、佐渡守親成より到来す、其時予〈◯林恕〉忌中なりければ、雅楽頭忠清宅へ招れて三家の勘文お披見す、年号の字十あまりこれあり、皆これお携へ帰宅す、三家は共に菅家の末也、紀伝道の家、此三家のみ今に伝て、其外は皆断絶するとなん、予忌除て勘例お調へ、私意お以て上中下お定めば、其中寛文お第一とす、雅楽頭忠清の旨に依て登城しければ、保科肥後守正之、酒井讃岐守入道空印、雅楽頭忠清、伊豆守信綱、豊後守忠秋、美濃守正則列座にて、勘例お聞き、各共に寛文しかるべしと思はるヽ体也、然れど今度の改元は公家よりの御沙汰なれば、唯一つに武家より定めらるべきにも、御遠慮あるべき儀也とのことにて、寛文に勘文の内二つお加へて、三つの内叡慮次第と、佐渡守親成方へ申し遣し宜しかるべきと議定し、上意おうかがひ、其旨に決し、肥後守正之は今太平の御代なれば、寛文最宜しかるべしと思はれける色なり、然れども衆議の上にて御前にて定ることなれば、重て雲に及ばず、四月二十五日改元あつて寛文(○○)と号す、執政諸老皆おもへらく、公家武家共に同意の年号珍重と申さる、風聞には吉良若狭守義内々にて、諸老の旨お伝へ申し遣しけるに因て、寛文に定るとなん、後日若狭守義予に語りけるは、此度の年号は春斎意にて定まると、京都にて沙汰ありと、凡正保より以来改元度々に及て、五年三年に過ず、寛永の例にて久しかるべしと、上下共に申しあへり、