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改元物語
寛文三年、当今皇帝〈◯霊元〉即位まします、御宇の初めなれば(○○○○○○○○)、改元ありたくおぼしめす沙汰ありしとなん(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、然ど事遂ざれば(○○○○○○○)、江戸より御許容なかりけるにや(○○○○○○○○○○○○○○)、今年寛文十三年五月八日、内裏炎上、同八月改元の沙汰あつて、九月三日、京兆尹永井伊賀守尚庸方より、年号の勘文八条到来す、稲葉美濃守正則、久世大和守広之、土屋但馬守数直より勘文お考へ、明日登城すべきの旨申し来るに依て、即日勘例、愚按に京都の勘文の要お取て和解お調へ、翌四日、先雅楽頭忠清宅に往て内見せしめ登城す、四執政列座の前にて逐一これお読む、愚按の趣各の意に協ひ、褒美の詞あり、こヽに於て四老御前に進み言上ありて、伊賀守尚庸方へ返書お遣す、予が愚意は八条の中にて、延宝、弘徳、天亀お上とす、宝永、嘉永お中とす、享延、建禄、至元お下とす、四老各予が口説お聞て、延宝(○○)は延暦延喜の吉例最宜し、弘徳天亀も、文字の意も唱もめでたし、宝永は応永の例も寛永の例も然るべし、嘉永は嘉吉の例、不吉也、享延は唱宜しからず、建禄は建の字こぼすと訓むなれば宜しかるべからず、至元は元の世祖日本お侵せし時の年号なれば、不吉也と、評議まち〳〵なり、是皆予が愚按に述し趣也、雅楽頭忠清、美濃守正則共に曰、至元の年号お勘進せるは、異朝の故事にくらし、三家の越度なりと、夫正保より毎度の勘例、共に公私雑纂に其草按お載たり、寛文の号十三年まで改めずして、本朝通鑑も此間に成就しぬれば、私の為には嘉号と謂ふべき歟、此度の改元頗る遺念なきに非ず、蓋改元は天下の大挙なり、然るに正保より明暦までは、毎度先考〈◯信勝〉のあづかる所なり、万治より此度まで三度予が与りし所なり、此僉議の時、執政の外、予父子ならでは一人も与る者なし、微少の身と雖ども、是亦稽古の力に非ずや、事の次に子孫に示さん為に、言長けれども記し侍る者なり、延宝元年癸丑九月二十三日、弘文院学士兼礼部尚書林〈恕〉之道誌、