[p.0257]
年号弁
近世大明の人、年号之事お論じて、正の字お用ひし代々不祥の事なる、凡其文に於いて、忌べき字やあると申輩あり、〈蜀部雑抄、秘笈、千百年眼、五雑俎等之雑書見へたり、〉君子の論にはあらず、〈◯中略〉野宮故中納言定基卿の文たまわりしに、正徳の号挙し申せしに、議定の事、猶以身の面目たるよしおしるされき、此卿当世の博学強識の人にて、かの大明の人の説などしらざる人にあらず、その陳じ申されし処の理長じぬる上は、諸卿も難ずるに其詞塞りし事と見へたり、
  十一月(壬辰)          筑後守新井君美
右一巻は正徳二年冬、文昭廟薨御之後、正徳之年号不吉之儀、林家より申出、即大学頭信篤、御老中迄以書付、改元有之可然と申立候処、越前守間部侯詮房、其由筑後守へ被申聞候、筑後守此一篇お記して明弁有之、御老中御聞届、改元之事相止候、然れども此一篇は、林家へ対し候て、事端も起候品に候得共、林家〈江〉之相手は筑後守にて候、事理明白、引証的当、猶至極之儀には候得共、世間へ流布仕候事は、堅く無用可仕候、其歳十一月廿九日室新助、