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茅窻漫録

革命紀元
此邦辛酉甲子の歳運に当るときは、必紀元すといふ事、兼良公の三革説にも見えたれど、何れの御世よりいひ出だしヽことにか、日本紀に神武帝辛酉年春正月、天皇即帝位、故に辛酉の年必紀元すといふは、其理当れり、甲子に必改元すといふは、いかなる義にか、詩緯推度災に、戊午革運、辛酉革命、甲子革政といふに拠るにや、されども年号定まりて遥か以後にいひ出だしヽ事ならむ、大化以前の異年号も、始終定かならざれど、欽明帝の明要と、推古帝の願転、斉明帝の白鳳とのみ、辛酉に紀元ありしと見ゆ、甲子の紀元は未見えず、年号定紀の大宝も、辛丑の年に紀元ありて、辛酉は改元なし、聖武帝の辛酉甲子とは改元ありて、桓武帝の甲子と、仁明帝の辛酉は改元なし、醍醐帝の辛酉は、改元ありて甲子はなし、村上帝の辛酉応和、甲子康保より、後柏原帝の文亀永正まで、五百四十三年のあいだ、辛酉甲子ともに皆改元ありて、正親町帝の辛酉甲子はともに改元なし、後水尾帝の甲子は改元ありて辛酉はなし、霊元帝の天和貞享より、当今にいたるまで改元あり、然らば辛酉甲子は、必改元すといふ定法とも見えず、帝王編年紀雲、延喜二十三年、昌泰四年七月十五日改元、依辛酉革命老人星也、孔鶴経御修法記雲、土御門天皇建仁元年二月廿一日壬寅、修孔雀経法于閑院禳辛酉厄、〈建仁元年は辛酉〉此等の記お考ふるに、神武帝御即位の辛酉お必定法則とし、紀元すとも見えず、老人星辛酉厄などいふは、緯書仏氏等のいふ説にて、人君体元以居正、元年お称する大法にあらず、勿論辛酉甲子の改元は、漢人定法なき事なり、緯書の類はとらず、王俊川曰、緯書多以三字為名、〈中略〉皆異端邪術之流、仮託聖経以售邪誣之説、其書今雖不存、而類書引用尚多、終惑後学、〈見琅琊代酔〉王者の大義法則お取るの書にあらず、改元立号は国家第一の大義にて、劉炫曰、唯王者然後改元立号、〈見左伝疏〉漢人紀元の法に効はヾ、緯書仏氏等、異端冥妄の説取るに足らざるなり、