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年年随筆

辛酉は革命とて、いみじうあしかる年とぞ、何事のあらむとすらむ、ゆヽしき事也、それも運によりてあたらぬこともありとぞ、諸道の勘文おめさるといふ、ことし〈◯享和元年〉はあたれりやあたらずや、きかまほし、寺々にも仰事ありて、御祈どもありときくはいみじう尊し、其みす法の名、金門鳥敏、々々々々とは、かのとのとりのとしといふ事なりとぞ、まことにやあらん、はかなたち戯にちかくて、御法の尊くめでたかるべきには打あはぬこヽちす、例なれば改元あるべし、寛政といふ年号、政の字はじめて用られつるに、十三までつヾきて、造内裏以下よき事のかぎりなりつれば、めでたき例にぞなるべき、辛酉の改元は、延喜の度おはじめとす(○○○○○○○○○○)、清行の宰相の勘奏によられたる也、さるは易緯に、辛酉為革命、甲子為革令とありて、鄭玄が説に、天道不遠、三五而変、六甲為一元、四六二六交相乗、七玄有三変、三七相乗、廿一元為一蔀、合千三百廿年とあるによりて、神武天皇元年お一蔀の首として、斉明天皇六年庚申まで千三百廿年、天智天皇即位の年〈斉明天皇八年〉の辛酉お第二の蔀首として、昌泰三年まで二百四十年、四六相乗の数みちて、延喜元年は大変革命の運なりとぞ、もし此説によらば、今年〈◯享和元年〉は第四の四六よりは六十年おくれ、第三の蔀首よりは百八十年さきだちて、大変の運にはあたらぬにやあらむ、諸道の勘答はいかヾあらん、いぶかしきことなり、さてかの善家の革命勘文に、明年辛酉、当帝王革命之期、君臣剋賊之運雲々、又北野の右大臣とておはしましヽに書たてまつりて、明年辛酉、運当変革、二月建卯動干戈、遭凶衝禍、雖不知誰是、引弩射市、当中薄命雲雲、伏翼知其止足、察其栄分、擅風情於烟霞、蔵山智於丘壑、後世仰視不亦可乎、努々力々、勿忽鄙言とあり、やがてその辛酉の正月に、北野の御事おあしざまに申せるものありて、左遷し玉へるは、まことに掌おさすがごとく、あさましきまでなむ、神武天皇元年お辛酉とさだめたるがうきたるうへに、鄭註などもうきたる事のやうにて、何のしるしかはあらむとおもひあなづらるヽ事なるに、かうまさしくいひあてたるは、まことにいみじき博士なりけり、