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折たく柴の記

我朝の今に至りて、天子の号令、四海の内に行はるヽ所は、独年号の一事のみにこそおはしますなれ、異朝の書にも、其事お論ぜし事も見えたり、古より此かた、我朝改元の例は、代始め、又は革命、革令、三合、天変、地妖、水旱、疾疫、兵革、飢饉等の事によれり、武家の代となりしより後も、武家の御事によりて此事ありし例はいまだ聞ず、其中一二の疑ふべきことあるおもて、或は又其事ありなど申べきにや、その事又弁ぜざる事お得べからず、建久十年正月十三日、前右大将頼朝薨じ給ひ、此年四月十一日改元ありて正治と号す、是は土御門院御代始によれる也、建保二年正月廿七日、右大臣実朝殺せられ給ひ、此年四月十三日改元ありて承久と号す、是三合并天変地妖によれるなり、貞治六年十二月七日、宝篋院義詮薨じ給ひ、明年二月廿七日改元応安と号し、長享三年三月廿六日常徳院義尚薨じ給ひ、此年八月廿日改元延徳と号す、是は兵革天変の事によれるなり、此外応永三十五年正月十一日、勝定院義持薨じ給ひ、此年二月九日に改元正長と号す、是称光院御代始によれり、是より先応永十五年正月六日、鹿苑院義満薨じ給ひ、同三十二年二月十七日、長徳院義量薨じ給ひしかど、改元ありしにもあらず、又嘉吉三年七月廿一日、慶雲院義勝薨じ給ひ、四年二月五日改元文安と号す、是兵革によれり、是より先嘉吉元年六月廿四日、普光院義教殺せられ給ひしかど、改元有しにはあらず、是ら其疑ふべき所なれど、武家の御事によらざる事既にかくのごとし、然るお今前代の御事によりて、正徳の号お改めらるべき由お以て仰られんに、もし上の人々是等の例によりて議し申さるヽ事ありなんに、いかにや侍ふべき、たとひ又それらの事に及ばずして、仰らるヽ所によられて、改元の事おはしますとも、天下後代有識の君子議し申事あらんには、当時補佐の人々の瑕瑾におはしますまじきにもあらず、是等の間よく〳〵後議定に過べからずと申たりければ、詮房朝臣いかにやはかられたりけん、此事もまた行はれずぞなりける、