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如蘭社話

明治年号難陳     大城戸宗重
改元の事は、漢の文帝の神仙お信ぜられしに権輿し、武帝の奇お好ませられしに成りし者ながら、また世の進化の一証なるべし、されど漢武帝、唐高宗の如き、一世に十二三の改元あり、我朝にても、二条天皇の御在位七年間に五回の改元あらせられ、四条天皇は十年間に六回の改元あらせられしなどは、いと煩しき限りなり、明太祖は英断にも始めて一世一号と定められ、今の覚羅氏も此制に倣はれたり、そは外国の事にて兎まれ角まれ、我が昭代の初、断然旧式に拠らせ給はず、御一世一元と仰出されしは、賢き御世の一大美事ならずや、畢竟国家の治乱盛衰は、年号の如何に在ずして、施政の得失如何にあるのみ、此頃享保二十一年御改元定の難陳お見しに、唐橋大内記〈在秀朝臣〉の撰進中に、明治の号お加へたり、当時西園寺大納言、〈公晃卿〉高辻式部大輔〈総長卿〉の陳弁もありしかど、坊城中納言、〈俊将卿〉清閑寺右大弁〈秀定卿〉の論難に依て、終に元文とぞ改元せられたりき、今明治の昭代となりて、いと珍敷き事に思はるヽまヽ、此に其の全文お掲げて、文義は取り様、治乱は為し様にあるの一例となさむとす、嗚呼百五十年前に排斥せられし明治の号も、今日斯く時お得たるお視れば、独人のみ幸不幸あるにあらず、文字も亦遇不遇あるか、
明治   唐橋大内記
周易曰、聖人南面而聴、天下郷明而治、
難   清閑寺右大弁
明治号、代始被用治字凡七八度、各年序不久、可有如何候哉、
〈按に、御代始に治字お用られしは、崇徳天皇の天治は二年、近衛天皇の康治は二年、二条天皇の平治は一年、後堀河天皇の寛治は七年、土御門天皇の正治は三年、後深草天皇の宝治は二年、後宇多天皇の建治は三年なり、〉
陳   西園寺大納言
明治号、被難之趣有其謂、然此二字其義用甚大矣、夫明明徳于天下者、聖王之所以治天下也、故礼曰、明照四海、而不遺微少、又雲、参於天下、並於鬼神、以治政也、猶宜為号、可被採用候乎、猶可在群議、
二難   坊城中納言
明治之号、所陳之其義固尽、菲才不能難也、然析字言之、則明字為日月、治字従台水、台星名也、水既逼日月星辰、則有洪水滔天之象、平時尚恐其不協、況於竜飛之始乎、
二陳   式部権大輔
明治号、析字被難之趣、離合之懺、猶有其謂、然明字為日月、按、周易大人者与天地合其徳、与日月合其時、此文可為嘉徴、如治字従台水之難者、天治号可謂水逼天文星辰也、亦在竜飛之始、而無決水之事、推古験今、強無其難歟、可被採用哉、猶可在上宣、
◯按ずるに、改元難陳の事は実に繁冗お極む、故に多く省略に従ふ、其詳細お知らんと欲せば、宜しく改元部類記お看るべし、