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折たく柴の記

此程又信篤、蜀都雑抄、秘笈、千百年眼等三部の書おひきて、年号に正の字お用ふるは不祥の事なり、早く改元の事あるべき由おしるして、老中の人々にまいらす、詮房朝臣我思ふ所お問れしかば、当時我言用ひらるべきものにあらず、されど問ひ給はんに、答ふまじきにもあらねば、しるしまいらせし事どもあり、其大要は、近世大明の人、年号之事お論じて、正の字(○○○)お用ひし代々不祥の事あり、凡そ文に臨みて忌べき字なりなど申す事、信篤が引きし所の外の書にも見え侍れど、皆是君子の論にはあらず、天下の治乱、人寿の長短のごとき、或は天運にかヽり、或は人事によれり、いかんぞ年号の字によりて祥と不祥と有べき、巍の斉王芳、高貴卿公、梁の武陵王、金の煬王哀、元の順帝のごときは、皆その不徳によりたまひしなり、たとひ其年号は正の字用ひられずとも、是等の人主其国お失ひ、其身お滅し給ふ事なかるべしや、大明の世に至ては、正統正徳の代々の事、皆其徳のいたり給はぬと、其政のよからざるとによれり、年号の字の罪にはあらず、孟子無罪歳とのたまひし所、よく〳〵心得給ふべきもの也、天下の治乱、人寿の長短等、年号の字によらざることどもお論じ弁むには、其説殊に長くして、誠に無用之弁言の費なるべし、唯誰にも聞しめして、心得わかち給ふに、たやすき証一つお挙て申べき也、凡そ人の幼といひ、弱といひ、壮といひ、強といひ、艾といひ、耆といひ、老といひ、旄といふ、其称同じからねど、唯その年の積れるにて、異なる人にはあらず、又生れて三月にして其名つき、二十にして冠して字つき、五十にして伯仲叔季お称するごとき、その称する所同じからねど、其命ずる所は異なるにあらず、かの年月日時といふものも、其称同じからねど、時お積て日となり、日お積て月となり、月お積て歳となる事、譬へば幼弱、壮強、艾耆、老旄などいふ事の同じからねど、異なる人にはあらざるが如し、さらば年の号あるは、猶月の名あるが如くにして、又これ人の三月の名、二十の字、五十の字ある事の如し、もし歳の号に正の字お用ひん事の不祥ならんには、月の名に正の字用ひんもまた不祥ならまし、然るに古聖人の世よりして、今の世にいたる迄、毎年の一月お正月と名づけて、孔子春秋の法にも、四始と申て、正月おもて歳の始とは申す也、正の字誠に不祥ならんには、古の代より此方毎年に不祥の月お以て始とするなれば、夫より此方一年として不祥ならぬ歳といふは有まじき事也、是等は余りに近き事にして、いはゆる睫お見ざるの論と申べしや、若年号には正の字不祥にして、月の名には正の字祥たるべき理あらんには、尋ねきかまほしき事なり、君子動而世為天下道、行而世為天下法、言而為天下則とも、又不知命、無以為君子也とも承れば、かヽる不通の論など、君子の人の可申所とも覚えず、また我朝之年号に、正の字お用ひられし事、凡十六度、不祥の事のみありとも見えず、もし武家の代となりし後、正慶に鎌倉滅び、天正に足利殿滅び給ひしなども申す事もあるべきにや、平高時入道滅びしは、実に正慶二年五月なり、されど其祖相摸守時政より此かた、九世の間、正治、正嘉、正応、正安、正和、正中等の号、すでに七度お経たり、其家彼時に滅びずして此時に滅びしは、年号の字によれりとはみえず、これそのみづからとれる禍にぞあるべき、足利殿の滅び給ひしは、実に元亀四年七月三日、義昭出奔の御事によれり、これらの事によりて、此月廿八日に改元ありて天正とは号したりき、等持院殿よりこのかた、十三世の間、正長、康正、寛正、文正、永正等の号、五度に及びしかど、その程に滅び給ひしにはあらず、すべて本朝の年号始りしより此かた、其代々の事お細かに論じて、其事彼事不祥なりなど申さば、何れの字にか不祥の事のなからざらむ、其故は、改元といふ事、和漢ともに、多くは天変、地妖、水旱、疾疫等によらざるはあらず、されば古より年号に用ひしほどの字一字として、不祥の事に逢ふ事なかりしといふものはあらず、若必不祥の事、年号の字の致す所ならん事お患へば、古の代の時の如く年号といふものヽなからんにはしくまじきにや、されど和漢ともに、年号といふものなかりし古の時にも、天下の治乱、人寿の長短、世として是なきにもあらず、某意多礼亜、喝蘭他亜等之人に逢ひて、当時蛮国の事ども具に聞しに、年号お用る国々わづかに二三に過ず、其余は皆年号といふ事はなくして、天地開避より、幾千幾百幾十年など申す也、されど二十余年の先より、西洋欧羅巴の国々、多くは其君死して、それが世継の事によりて乱し国すくなからず、こぞの冬、是年のはるも、多く戦ひ死せしなど申す也、是らは又いかなる事のたヽりぬるによりてかくはあるにや、さらば年号なしとも、天運のおとろへ、人事の失ふ所あれば、乱れ亡びざる事お得難しとは見へたり、又異朝代々に同じ年号お用ひし事、彼は興り是は亡びしも又少なからず、たとへば永楽の号は、初め五代の時に張遇賢といひし蛮賊、中天大国王など称して、其元お永楽とせしが、ほどなく亡びぬ、其後宋の代に及て、方臘と雲ひしが、帝お称して永楽の号お用ひしに、わづかに八月にして亡びぬ、其後又大明の太宗即位の後、永楽の号お用ひられしに、廿六年の宝祚お目出度し給ひき、是等の類悉くにかぞふるにいとまあらず、また本朝の号、異朝と同じきいくらもあり、たとへば建武の号は、後漢の光武、漢室お中興し給ひて、三十一年迄おわしましき、後醍醐院是お用給ひしかども、二年にも及ばずして天下乱ぬ、天暦は村上天皇の号にして、本朝の目出度代のためしには申伝へし所なれども、元の文宗の時、此号お用ひられしに、わづかに五年にして崩ぜられき、これらの類も又かぞふるにいとまあらず、凡和漢古今の事お併考ふるに、天下の治乱、人寿の長短、年号の字にかヽはらざること如此、