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塩尻

一謝肇浙曰、自古以(○)正(○)為(○)号(○)、多(○)不(○)利(○)也(○)、如梁正平天正、元至正之類、為其文一而止也と雲々、按ずるに、是拘れる説か、夫正は君也、長也、定也、平也、是也、又邪の反にしてたヾしきお雲、何の止りと雲事かある、一而止、拆字の附会也、正の古文が正なる、是おも一而止といふべきやと雲ひしに、或人曰、吾子が言も又一偏の義か、つら〳〵思ふに、我国文武帝の大宝已来、年号正の字お命ぜしは、一条院正暦お始とす、彼帝花山の淫風お継ぎ、惰弱上古にもためしなかりし故、執柄家資に天下お左右せし、是よりぞ王家の威衰へ、権下に移りし、其後は土御門院正治、其元年に頼朝薨じ、同御宇に頼家横死し、帝も又譲位の後西狩し給へり、後深草院正嘉二年暴風洪水、流疫打続き、伏見院正応元年大地震、其三年浅原八郎南殿お犯して自害せし、花園院正和四年鎌倉大火の災、後醍醐帝正中元年地妖数々ありて、帝外国へ遷らせましませし、光厳院正慶、空しく廃帝の号となれり、後村上院正平、立かへる皇運もましまさず、南山に終らせ給ふ、称光院正長は、凶に依り一年にして停ぬ、後花園院康正寛正の如き、天変〈両日及三日現ぜし事毎度〉疫癘巷に満て、中々あさましき世也、後柏原院永正元年天下飢饉、前代未聞の凶事なりき、その他三笠山の神木、故なくして数株枯れ、彗星顕れて、太神宮池魚の災ありし、山崩れ、海溢れ、〈永正七年八月廿日洪涛、遠州今切入海となる、〉或は武臣〈細川政元〉害せられ、将軍家東に奔り給ひし、正親町院天正に、京師寇火災しげく、其十三年信長殺せられ給ふ、又大風、洪水、地震、疫病、よからぬ事多かりし、此等の凶事、それならぬ年号の時も毎々に有りしかども、謝氏が言によつて史お見れば、さる事多し、近頃後光明院正保、さしも凶変なかりしかど、明主援兵お請ひ、世間さわがしく、且在位の内崩御の御事、近き世聞へ給はず、〈◯中略〉今の正徳改元の後、寿経院〈◯寿経院一本作女院〉崩御、京極の宮打続薨ぜさせまします、大樹の御幼君〈虎吉君〉も過し冬御早世ありし、ことし夏新上西門院崩御ありし、且去年及び此秋も諸州大風、洪水、庶民溺死千お以て数ふ、かヽる事につけても、正の字のためし思ひ出侍りしに、神無月十四日幕下薨ぜさせ給ひし、嗚呼賢哲の君にて渡らせましましければ、天下のおしみ奉る事いふばかりなし、因て雲、宋の真宗の豊亨お、楊大年が為に不可といひ用ひざりしとかや、其外純熙隆平之号義お論じ、天聖明道の字お賀せし、帰田録等に見へたり、我国正保の時、京童の口吟に、正保は正しき人口木哉といへりし、延宝改号の時、内々は明和と号せらるべきなど議せられ、勘文お草して啓せしに、法皇〈後水尾院〉聞しめして、九年あらば如何と仰事ありて、停しとかや、〈めいわくとしと聞ゆる叡慮とかや〉倭漢古へより、年号の文字評議有る事にや、
按(賢)、年号之事、近年紀伝明法の博士難陳有といへども、明和九之、後水尾帝の遺勅にもとりて、九年に当りて江戸大火、八月大風、南鐐銀通用して、天下の金気失て、白気の陰気強行はれたる世とはなりたる也、是に依て安永と改たれども、江戸大火、洪水、疫癘流行、諸国山やけ出し、又天明と改れども、此尽る節は如何成行事哉覧と、京童の口吟にあり、打続浅間山焼出し、大水飢饉打続、六年は将軍御他界、執事家に難あり、此上は五穀豊饒お祈のみ、