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茅窻漫録

和漢異年号
和邦の年号、大化前後に異年号ある事、藤貞幹が逸号年表に多く載せ、高昶が和漢年契凡例にも並べ挙げたれど、国の正史に見えざれば、紀年の始末、文字の異同ありて、皆後世より億断するもの、いづれも確説とはいひがたし、故に如是院年代記、継体帝十六年善記注に、或曰継体天皇自十六年、始めて年号在之雲々、分者朱にて書之、年数相違之処在之不審とあり、漢土の異年号も、建元以前にあるもの、大率相同じ、紀年の始末億断し難し、諸書に載する所、その異同お挙ぐる事左のごとし、
  和邦異年号
列滴〈孝霊帝之時、紀元始終未詳、〉 璽至〈応神帝之時、紀元始終未詳、一説神功皇后摂政四十年庚申、巍斉王正治元年、贈倭王印、璽至年号拠此、〉 嘉紀〈武烈帝即位元年己卯、紀元四年終、同五年改元、是字下一字磨滅未詳、歴年四年、後無紀、〉 善化〈継体帝十六年壬寅、紀元五年終、以上三号見古代年号、海東諸国記雲、継体帝十六年壬寅、始建年号為善化、五年丙午改元、春秋暦略、年代記、皇代記、並皆四年終、如是院年代記、善化作善記、四年終、〉 正和〈継体帝二十年丙午改元、五年終、年代記、皇代記、春秋暦略、海東諸国記皆同、皇代記作正治、古代年号二十一年丁未改元、四年終、如是院年代記正和元太子立、年六十一、〉 教到〈継体帝二十五年辛亥改元、五年終、古代年号、春秋暦略、年代記、皇代記、古本水鏡、活字水鏡皆同、続教訓抄雲、安閑帝教到六年丙辰、海東諸国記作発到、〉 宝元〈安閑帝二年乙卯、紀元五年後無紀、見西林寺仏光後銘、如是院年代記無宝元号、〉 僧聴〈宣化帝即位丙辰年紀元、四年後無紀、春秋暦略、年代記、皇代記、海東諸国記、如是院年代記皆同、古代年号、水鏡二本至五年、〉 明要〈欽明帝二年辛酉紀元、十二年終、春秋暦略、年代記、皇代記皆同、皇代記作明安、古代年号九年改元、得字下一字磨滅未詳、海東諸国記作同要、〉 貴楽〈欽明帝十三年壬申改元、二年終、年代記、皇代記、春秋暦略、如是院皆同、古代年号三年終、〉 法靖〈欽明帝十五年甲戌改元、年代記、皇代記、皆同、春秋暦略、如是院年代記作法清、海東諸国記作結清、古代年号十六年乙亥改元、〉 兄弟〈欽明帝十九年戊寅改元、一年終、古代年号、皇代記、春秋暦略、諸国記、如是院皆同、一本作兄弟和、〉 蔵和〈欽明帝二十年己卯改元、五年終、年代記、皇代記、春秋暦略、諸国記皆同、古代年号二十一年改元、如是院作蔵和、〉 師安〈欽明帝二十五年甲申改元、一年終、年代記、皇代記、峯相記、春秋暦略、諸国記、如是院皆同、古代年号一年後、〉 知僧〈欽明帝二十六年乙酉改元、五年終、年代、皇代記、暦略、如是院皆同、古代年号二十七年改元、諸国記作和僧、〉 金光〈欽明帝三十一年庚寅改元、六年終、年代、皇代記、古〉〈代年号、暦略、如是院、平家物語、源平盛衰記、諸国記皆同、〉 賢称〈敏達帝五年丙申紀元、五年終、年代、皇代記、暦略、如是院、水鏡二本皆同、古代年号作賢棲、海東諸国記作賢接、一本作賢輔、又一本作賢博、〉 鏡常〈敏達帝十年辛丑攺元、四年終、水鏡二本、古代年号、年代、皇代記、如是院皆相同、海東諸国記作鏡当、一本作鏡照、〉 勝照〈敏達帝十四年乙巳改元、四年終、年代記、諸国記、如是院皆相同、古代年号二年終、古本水鏡勝照作勝烈、〉 和重〈用明帝二年丁未紀元、二年終、見古代年号、〉 端政〈崇峻帝二年己酉紀元、五年終、皇代記、春秋暦略、水鏡二本、古代年号、諸国記皆同、年代記、平家物語、源平盛衰記皆作端正、如是院年代記作端改、古代年号端正為推古帝二年改元、〉 喜楽〈推古帝即位元年癸丑紀元、一年終、見古代年号、〉 告貴〈推古帝二年甲寅改元、七年終、年代、皇代記、春秋暦略皆同、諸国記告貴作従貴、一本作告言、如是院記二年改元、作告貴、〉 始哭〈推古帝三年乙卯改元、一年終、見古代年号、〉 法興〈推古帝四年丙辰改元、五年終、見古代年号、釈日本紀引伊予風土記雲、法興元年十月歳在丙辰、見道後湯碑、一本作六年非、六年辛酉改元願転、蓋元字以六字体似誤、一説此年法興寺落成、故改元法興、〉 願転〈推古帝九年辛酉改元、四年終、古代年号、年代、皇代、暦略、如是院皆同、諸国記作煩転、〉 光元〈推古帝十三年乙丑改元、六年終、古代年号、諸国記皆同、皇代記光元作弘元、暦略、如是院並作光充、按此年四月造丈六仏像、故為号、〉 定居〈推古帝十九年辛未改元、七年終、年代、皇代、暦略、諸国記、如是院皆同、水鏡二本六年後不見、神明鏡二年後不見、聖徳太子拾遺記定居作定光、〉 見聖〈推古帝二十一年癸酉改元、五年終、見古代年号、〉 倭京〈推古帝二十六年戊寅改元、五年終、古代年号、諸国記皆同、水鏡二本作和京、六年終、一本作委京、如是院作和景縄、〉 景縄〈推古帝二十六年戊寅改元、五年終、年代、皇代、暦略皆同、神明鏡二年後不見、皇代記一本作和黄縄、按此年年中改元、諸書所載不同、〉 法興元世〈推古帝二十九年辛巳改元、其終未詳、見法隆寺釈迦仏光後銘、和漢三才図会信州善光寺条雲、法興元世一年辛巳十二月五日、源平盛衰記雲、法興元世二十一年壬子、按此年皇太子薨、是与法興同、浮屠之所称也、〉 仁王〈推古帝三十一年癸未改元、六年終、年代、皇代、暦略、諸国記皆同、水鏡二本三十二年改元、五年終、〉 節中〈推古帝三十一年癸未改元、一年終、見古代年号、按此年改元仁王、又改元節中、是与上倭景縄同、未知熟是、〉 聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸国記皆同、古代年号作聖聴、三年改元、〉 僧要〈舒明帝四年壬辰改元、五年終、見古代年号、諸国記、如是院並七年乙未改元、五年終、〉 僧安〈舒明帝七年乙未改元、五年終、年代、皇代、暦略、諸国記皆同、按僧要以字体似、一是必有誤、未知熟是、〉 命長〈舒明帝十二年庚子改元、水鏡二本、三年後不見、諸国記七年後改元、古代年号九年丁酉改元、五年後不見、一本作明長、一作長命、〉 今長〈改元同上、七年終、年代、皇代、暦略所載皆同、按命今字体相似、一是伝写誤、〉
  以上年号係大化以前、如是院年代記、孝徳帝朝無大化之号、
常色〈孝徳帝三年丁未改元、五年終、年代、皇代、暦略、諸国記所載皆同、〉 中元〈天智帝即位元年壬戌紀元、四年後不見、古代年号所載、〉 果安〈天武帝十五年丙戌改元、四年終、見古代年号、〉 大和〈持統帝四年庚寅紀元、七年後不見、見古代年号、〉 大長〈持統帝六年壬辰改元、九年終、年代、皇代、暦略、如是院皆同、海東諸国記、延暦中解文所載、並皆係文武帝丁酉年、而四年終、〉
  白雉、白鳳、朱雀、朱鳥之号、始末未詳、白雉〈日本紀、孝徳帝六年二月庚午朔戊寅、穴戸国司草壁連醜経献白雉、此年為白雉元年、如是院年代記亦係六年庚戌、改元白雉、水鏡二本、年代、皇代、暦略、諸国記皆以孝徳帝八年壬子為改元、如是院年代記八年無改元、旧唐書以孝徳大化乙巳年為改元、〉
白鳳〈水鏡二本、年代、皇代、暦略、諸国記、如是院皆以斉明帝七年辛酉為白鳳元年、大織冠公伝以孝徳帝五年己酉為改元、如是院以六年庚戌為改元、引二月長門国献白雉、愚管抄、良醞年中行事並皆以天武帝即位壬申為白鳳、〉 白鳳雉〈水鏡二本、天武帝二年癸酉二月廿七日即位、改元白鳳雉、如是院癸酉二改元白鳳、二月皇后立、〉 朱雀〈水鏡二本、天武帝即位元年八月改元朱雀、如是院以天武帝十三年甲申為朱雀元、那須国造碑、海東諸国記並皆相同、而朱雀為朱鳥、〉 朱鳥〈日本紀、天武帝朱鳥元年秋七月己亥朔戊午、改元曰朱鳥元年、如是院、天武帝十五年、大化元、和州献赤雉、因滋改朱鳥、日本霊異記天武帝十五年丙戌、改元朱鳥、七年後不見、海東諸国記改元同上、歴世九年改元、〉
  以上年号係大化以後、如是院年代記天武帝十五年為大化元、〈◯中略〉
因て考るに、此邦大化前後の頃までは、年号紀元の事は甚疎略にして、制法もたヽず、年数の長短も正しく記載せざりしと見ゆ、故に諸書に載たるも、彼此異同ありて、いづれお証拠となし難し、続日本紀に、神亀元年十月朔日、詔曰、白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明とは是なり、文字の美悪是非は勿論、その頃は仏道興隆の初なれば、名目多くは仏家より出たると見ゆ、孝徳帝の御世、蘇我入鹿天誅に伏し、暴虐夷滅せらるヽ後、教化大に行はれ、人々に制おなすの始お示さむとて、大化の号お紀元し給ふ、日本紀略に、弘仁詔、朱鳥以前未有年号之目、難波御宇始顕大化之称とは是なり、海東諸国記に、継体帝十六年壬寅、始建年号為善化、五年丙午改元とあり、此帝の七年に、五経博士お置たまへば、文字の義理も定て吟味ありつらむ、然るに善化お以て紀元の始とし、又孝徳帝の御世大化お以て紀元の始とし給ひ、二つの化字五年にして同じく改元なりしも、燧和仲が言しごとく、大率離合之懺、深微難逃とは是ならん、〈◯中略〉又孝徳帝の御世より、天下の政事多く改り、専に漢土の法則に効ひ給ふ故に、古代の年号は皆刊り去て、大化と紀元し給ふと見ゆ、されどもこれより定式となり、末代に連綿せざるなり、又朱雀白鳳などの号、一時の瑞お紀したるは、諸書載る所、始末おなじからず、日本紀に載ざるゆえ、年号の数に入ざるなり、日本紀に、大化五年二月庚午朔戊寅、〈戊寅は九日〉穴戸国司草壁連醜経献白雉、改元白雉の号見え、〈今日本紀に、改元白雉とあるも、後世文人の称する所、定式となしがたし、其訳は、続日本紀に、白鳳以来朱雀以前といひ、古語拾遺に、難波長柄豊前朝白鳳四年とあれば、白鳳と書たるにや、水鏡、正統記、宝基本紀、元亨釈書の類証拠となし難し、又如是院年代に、天武帝十五年丙戌お大化元とし、和州献赤雉、因滋改朱鳥とあれども、日本紀に此事なし、〉天武帝十五年朱鳥の号あれども、年号改元の規則とせず、本朝改元考雲、本朝文武天皇創建大宝之号、郷此雖有孝徳天皇之大化白雉、天武天皇之朱鳥、而紀一時之瑞、未為定式、故源親房正統記、以大宝為年号之始、〈本朝改元考は山崎闇斎の著なり〉源為憲が口遊〈天禄元年冬十二月記〉年代門に、今案、自大宝元年迄今年、総二百七十年、昔大宝以往有年号曰大化、白雉、白鳳、朱鳥、凡至白雉合九載、其後斉明天智二帝雖治天下、専無号、転更至天武治天、歳号朱鳥、其後持統一帝無年号、亦文武御天歳号大宝、従此以来永以不絶也とあり、此即ち吾国金貨の始発する日にて、文武帝五年三月廿一日、大宝紀元の号、本朝紀年の権輿、万世不易の定法としるべし、漢土にも武帝建元お紀年の始とすれど、文帝の後元と、景帝の中元後元は、史官追書の名として、改元定式の年数に入ざる事、改元考に見えたり、〈◯中略〉
和漢の異年号、諸書に見えたるもの、大率かくのごとし、紀年の始末しれざるは、いづれも億断しがたし、此外に彼土には、年号同名数多あり、陳継儒が偃曝談余に、漢の建元より明の正徳に至るまで、凡一百余名お載たり、其中大半は僭号多し、此邦は皇統一姓にて、ありがたき事なり、〈継体帝の正和と、花園帝の正和と同名なれど、大化以前の年号は正史に載ざれば、証拠となし難し、〉いづれにも、年号は国家第一の重事たるべき事と思はる、