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襲国偽僭考
継体天皇十六年、武王年お建て善記といふ、是九州年号(○○○○)のはじめなり、
年号 けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七年、其間年号連綿たり、麗気記私抄、また海東諸国記などにもこれお載せ、今伊予国の温泉銘にも用ひ、如是院年代記にも朱書して出せり、しかれども諸書載るところ異同多し、今あはせしるして参考に備ふること左のごとし、
善記 襲の元年、継体天皇十六年壬寅、梁普通三年にあたる、海東諸国記善化に作る、如是院年代記に、或曰、継体天皇自十六年始年号在之雲々分者朱にて書之、年数相違之処在之不審とあり、一説曰、継体帝之時、善記四年終、
正和 継体天皇二十年丙午、正和元年とす、孔方不知品に、正和通宝あり、けだし襲人の鋳るものなり、桂林漫録にのせたる、下野国河内郡なる正和元年建立の鉄塔婆は、花園天皇の正和元年壬子のものなり、混ずべからず、一説曰、正和五年終、
殷到 継体天皇二十五年辛亥、殷到元年とす、海東諸国記発例に作り、如是院年代記教到に作る、同書に、教到元始作暦とあるも、また襲人のしわざなるべし、一説に、正和と殷到との間に、定和常色の二年号あり、いはく定和七年終、常色八年終、教知五年終、一説作教到、又曰殷到、按自四年至五年、係安閑帝之時、
僧聴 宣化天皇元年丙辰、僧聴元年と改む、一説曰、宣化帝之時、僧聴四年終、欽明天皇元年、かれが僧聴五年、襲の人衆お率て帰附す、欽明紀曰、元年三月蝦夷隼人並率衆帰附、
明要 欽明天皇二年辛酉、明要元年とす、海東諸国記同要に作る、一説曰、欽明帝之時、師安一年終、大長三年終、法清四年終、清一作靖、兄弟和一年終、一作兄弟、明要三年終、或雲、十二年、蔵知一年終、知一作和、知僧一年終、或雲七年、
貴楽 欽明十三年壬申、貴楽元年とす、一説曰、貴楽十八年終、或雲二年、
法清 欽明十五年甲戌、法清元年とす、海東諸国記結清に作る、
兄弟 欽明十九年戊寅、兄弟元年とす、
蔵和 欽明二十年己卯、蔵和元年とす、如是院年代記に蔵知に作る、師安 欽明二十五年甲申、師安元年とす、
知僧 欽明二十六年乙酉、知僧元年とす、海東諸国記に和僧に作る、
金光 欽明三十一年庚寅、金光元年とす、一説曰、金光六年終、或雲四年、実敏達帝二年、豊後人真名野長者道場お内山に起立し、号して蓮城精舎といふ、はじめ長者金三万両お天台山に寄て福根とす、南岳慧思大師、緬に長者が徳ある事お知り、すなはち弟子蓮城お遣はし、赤檀千手眼瑠璃薬師仏像お齎し来らしむ、長者深くこれお信じ、蓮城精舎お起し、また深田の地に就て、祗陀、療病、施薬、安養、快楽の五院お創め、名けて満月寺といふ、皆城おもて開基とす、事は豊鐘善鳴録に見えて、豊後国志にもこれお引たり、内山は好古小録硯石品に、内山石、豊後上材難獲といへる処なり、
賢棲 敏達天皇五年丙申、賢棲元年とす、海東諸国記棲お接に作る、如是院年代記に称に作る、一説曰、敏達帝之時、賢輔五年終、輔一作棲、又作博、
鏡常 敏達十年辛丑、鏡常元年とす、海東諸国記常お当に作る、一説曰、鏡常四年終、鏡一作鐘、今按ずるに鏡常是なり、
勝照 敏達十四年乙巳、勝照元年とす、一説曰、照勝四年終、一曰作勝照、又曰、用明帝之時、和重二年終、
端政 崇峻天皇二年甲寅、端政元年とす、如是院年代記端改に作る、一説曰、崇峻帝之時、端政五年終、
吉貴 推古天皇二年甲寅、吉貴元年とす、海東諸国記従貴に作る、一説告貴に作る、いはく推古帝之時、告貴十年終、又曰、按一説、推古元年為喜楽、二年為端正、三年為始哭、一作始大、自四年至十年、為法興、是四年号通計十年、而終与告貴年数正相符、則十年之間、蓋与告貴互相行也耳、いま按ずるに、伊予風土記に、湯郡雲々、天皇等於湯幸行降坐五度也雲々、以上宮聖徳皇子為一度、及侍高麗恵慈、葛城王等也、于時立湯岡側碑文、其立碑文処、謂伊社邇波之岡、記曰、法興六年十月歳在丙辰雲々と見えたり、丙辰は推古天皇の四年にして、すなはち法興寺の成し年なり、この年お法興六年とすれば、その元年は崇峻天皇の四年辛亥なり、しかるに今記する処とあはず、疑ふべし、
願転 推古七年辛酉、願転元年とす、海東諸国記煩転に作る、一説曰、願転四年終、
光元 推古十三年乙丑、光元元年とす、如是院年代記光充に作る、一説曰、光元六年終、一作弘元、又曰光充、
定居 推古十九年辛未、定居元年とす、今按ずるに、宝永五年板霊符縁起集説といふものに、我朝推古女帝〈人王三十四代〉の御宇に、百済国定居元〈辛未〉年、聖明王第三の御子琳聖太子、我朝に渡り玉ひて、此法おもつはら弘め玉ふ、其後儒仏神ともに執行しけると〈旧記に見たり〉とあり、此旧記といへるは、何れの書なる事さだかならざれども、さる事しるせるふみありと聞えたるに、既に九州年号お百済年号と誤りたり、
倭京 推古二十六年戊寅、倭京元年とす、此年号海東諸国記には見えたり、麗気記には見えず如是院年代記には和京縄につくれり、一説曰、和京五年終、一作和景縄、又曰、按和京元年、為定居元年、定居七年終、和京五年終、則仁王元年、則為定居六年、蓋是三年号、又互相行也耳、
仁王 推古三十一年癸未、仁王元年とす、一説には、仁王の次に節中といふ年号あり、いはく仁王六年終、節中五年終、
聖聴 舒明天皇元年己丑、聖聴元年とす、如是院年代記に聖徳に作る、一説曰、舒明帝之時、聖聴三年終、僧要 舒明七年乙未、僧要元年とす、一説曰、僧安五年終、
命長 舒明十二年庚子、命長元年とす、一説曰、明長五年終、一作命長、又曰長命、又曰、按自三年至五年、係皇極帝之時、右大化以前年号、
常色 孝徳天皇三年丁未、常色元年とす、これお一説には継体帝之時の年号とす、前に見えたり、
白雉 孝徳六年庚戌、白雉元年とす、斉明天皇元、かれが白雉六年、その人衆お率て内属す、 斉明紀曰、元年、是歳蝦夷隼人率衆内属、詣闕朝献、
朱雀 天武天皇元年壬申、朱雀元年とす、一説には白雉朱雀の二年号おしるさずして、ことに中元果安の二年号おしるしていはく、天智帝之時、中元四年終、又曰、按戊辰為元年、天武帝之時果安、又曰、按不審年数、
大和 持統天皇九年乙未、大和元年とす、此年号麗気記には見えず、海東諸国記にはのせたり、孔方不知品に大和通宝あり、これこの大和年中に鋳たるにてもあるべし、一説曰、持統帝之時大和、又曰不審年数、
大長 文武天皇二年戊戌、大長元年とす、一説曰、文武帝之時大長、又曰、按戊戌為元年、右大化以後年号、九州年号こヽに終る、今本文に引所は、九州年号と題したる古写本によるものなり、
今按ずるに、文武天皇の大宝以前の年号は、九州年号とまがへるものあらんもしるべからず、よくよく考ふべきことなり、今試に論ぜば、朝廷にて年号お立たまへる事は、孝徳天皇の大化元年お始とし、その六年白鳳と改元、これより天武天皇の元年まで白鳳お用ひ給ひ、天武天皇の元年朱鳥と改元、これより文武天皇五年まで朱鳥お用ひ給ひ、文武天皇五年大宝と改元ありしなりけんお、大宝以前の年号は、きはやかならざりしが故に、書紀お撰び給ひし御時にも、既に此事さだかならずして、孝徳の御世の白鳳おば、九州年号の白雉にまがへ給ひ、白鳳お朱鳥と改元ありし天武帝の元年お、還て白鳳元年としるし給ひ、朱鳥と改元ありしは、帝の末年の御事としるし給へる者なるべし、しかれば朝廷の白鳳元年は、九州年号の白雉元年にあたり、朝廷の朱鳥元年は、九州年号の朱雀元年にあたるなり、もししからば、九州年号の白雉朱雀は、朝廷の白鳳朱鳥お擬して唱へたる者といふべし、続日本紀に、白鳳以来、朱雀以前とある朱雀は、朱鳥の誤にや、日本紀略、嵯峨天皇大同五年九月丙辰詔曰、朱鳥以前未有年号之目、難波之御宇始顕大化之称とも見えたり、かくて孝徳の御世の白雉は白鳳なるべき証は、古語拾遺に、難波長柄豊前朝、白鳳四年と見え、大職冠公伝に、天万豊日天皇、已厭万機、登遐白雲、皇祖母尊俯従物願、再応宝暦、悉以庶務委皇太子、又白鳳十四年皇太子摂政などあるにて推べし、豊前朝とは孝徳帝の御事なり、天万豊日はすなはち帝の御諱なり、皇祖母尊とは斉明帝の御事、皇太子は天智帝なり、元亨釈書などにも白鳳十二年、白鳳十四年などヽしるせり、また神皇正統紀に、文武天皇即位五年辛丑より始めて年号あり、大宝といふ、是より先に孝徳の御代に、大化、白雉、天智の御時、白鳳、天武の御代に朱雀、朱鳥など雲号ありしかど、大宝より後にぞたえぬ事にはなりぬる、依て大宝お年号の初とするなりと見えたり、これに天智の御時白鳳としるせるも、一つの証とすべし、さて如是院年代記には、孝徳天皇元年に、大化と年号たて給ひし事見えず、六年の下の細書に、白雉元年二月、長門国献白雉、改元白雉と見え、天武天皇の下の細書に、即位之年壬申改元、朱雀二年の下の細書に改元白鳳、十三年の下に朱雀元と朱書し、十五年の下に大化元と朱書し、細書に和州献赤雉、因滋改朱鳥と見え、持統天皇六年の下に、大長元と朱書し、文武天皇大宝元年よりぞ年号お大書して、細書に三月二十一日改元、年号始於此、此歳対馬島貢金、由是三月二十一日甲午改元大宝とあり、これらによりておもふに、朝廷にてまさしく年号お建給ひたるは、この大宝ぞ始にて、是より以前の年号は、九州年号とたがひにまがひたるなるべし、白鳳と白雉と、朱鳥と朱雀と義相近く、大化と大和と音相同じきおもおもふべし、