[p.0354][p.0355]
春湊浪話

往古年号
年号は、孝徳帝御時、大化白雉の号お置れたる、日本紀に見えし始なり、しかるに伊予国の湯碑文お上宮太子の建給ふに、法興六年十月歳次丙辰としるさせ給ふ、此碑は今廃れたれど、其文は伊予風土記お引て釈日本紀にみえたれば、法興の年号有し事明也、考るに丙辰の年は、推古天皇の四年なり、此法興の号、源平盛衰記にもみえたり、又欽明天皇の御時、金光の年号、推古天皇の御時、端政の年号等も、平家物語にみえたり、猶後世の書なれども、東山殿の同朋相阿弥が著す君台観にも、聖徳六年戊巳としるす、又江州あぶら火の明神の社記にも証明四年と書たりといふにや、海東諸国記に、敏達天皇元年壬辰に金光お用ひ、崇峻天皇二年己酉に端政お用ひ、舒明天皇元年己丑に聖徳お用られしといふとみえたり、法興と証明といふ号は其書にみえず、是等の年号ふるく記し置き、異国にても書たれば、往古大化白雉より先に年号有し成べし、聖徳太子と申奉る事、御諱名なりとも、御謚号なりとも記せしものあれども、其世の年の名おとりて称し奉るにやあるべき、其後白鳳と朱雀といふ年号、ふるき文に多く見え、水鏡には、天武天皇の大友皇子お亡し給ふ年の年号朱雀元年にて、明年白鳳と改元有しなり、神皇正統記には、天智の御時白鳳、天武御代に朱雀朱鳥などいふ号有しと見え、又古語拾遺には、難波豊前の朝白鳳四年といふ事も有、是は孝徳天皇の朝の御事なり、此二つの年号、諸記にしるす所如此に齟齬ある上に、正史に見へず改元考にも出されず、此二つの号とるべき名にあらずと思ふに、聖武天皇神亀五年十月に、治部省より奏言せし詔報のなかに、白鳳以来、朱雀以前、年代其遠、尋問難明、亦所司記注、多有粗略といふ事、続日本紀にみへたれば、日本紀にみへずとて、此年号朝廷に一向廃せられし号にもあらざるか、今是お審にせんに外に所見なし、按るに、朱雀白鳳の年号は、天武天皇難おさけて吉野にこもらせ給ひ、それより二年の後、癸酉のとし浄御原の宮に即位し給ひし間に、大津の宮にて大友皇子の立給ひし年号なる故に、舎人親王の日本紀に除て書せ給はざりしや、上に引し聖武天皇の治部省へ詔報ありし詞も、大津宮の大友皇子の御時の事なれば、何事も明に知がたきとあることにて、大津宮の二つの年号お出されざる事なるべし、亦天平感宝といふは、天平廿年四月に改元有し号なれども、間もなく同年七月に天平勝宝と改元ありし故に、国史にはみえたれども、年代記等にはみえず、世の人のしらぬ年号なり、