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長等の山風附録

源平盛衰記なる、近江国長光寺の縁起お語れる文に、〈◯中略〉此は、そのかみ彼寺の縁起文によりて記せりと聞ゆるに、其法興元世廿一年壬子といへるは、今己が考たる説に合ひがたし、其はまづ、法興元世といへる世字の論は、しばらく除て、廿一年壬子とある干支年次によりて、推し撿るに、聖徳太子のおはしましける、御世の壬子は、崇峻天皇の五年にて、かの速見の湯の碑文の、法興二年に当れば、廿一年と雲へるに合はず、かの仏光後の銘お、法興元世の一年とせむにも、其廿一年は、舒明天皇の十三年辛丑に当りて、干支も合はざるが上に、聖徳太子薨給ひて、廿年の後なれば、是も合はず、すべて件の縁起の趣、古書どもに見えたる事実にも、さらに合はず、有べくもあらぬ事どもにて、いと妄浪なるお思へば、既く其寺の僧徒が造言にて、彼善光寺如来に賜ひたる、聖徳太子の文の類にて、かの仏光後の銘お、法興元世と読なれたる説によりて、干支年次おだに考ずして、謾りに造言せるものなりけり、かくて其年号〈◯法興〉は、次の推古天皇の御世かけて、厩戸皇子の摂政のほどまで用ひ給へるお、いはゆる法興元卅一年に、皇子薨給ひて、後おのづから廃みぬるなるべし、但し此年号も、後の例のごとき重事として、天下に遵用ひさせ給へるにはあらで、一時の嘉号の如くなりけるが上に、もはら馬子などが申し行ひたる事なるべければ、是も史には除かれたるなるべし、然はあれど、是ぞ年号と称ふものヽ創には有るべき、