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偽年号考
按に、常陸国赤浜村妙法寺過去帳に、延徳二年庚戌の傍に書して雲く、福徳元、又同三年辛亥の傍に福徳二と注せり、陸奥国河沼郡塔寺村八幡宮長帳に、文明十九年丁未の次、延徳四年壬子の前に、福徳二年辛亥とかヽげて、其下の注に、貞和二年丙戌年より福徳二年辛亥年に至て一百四十七年也とあり、依て延徳三年辛亥より送算するに、貞和二年丙戌に至て、実に百四十六年也、然れば長帳の算数一年おあやまるといへども、二年辛亥とするもの妙法寺過去帳に合する時は別に論なし、下総国平賀村本土寺過去帳に、妙本入道福徳二辛亥八月十七日とあり、新編鎌倉志に、光明寺に祈祷の二字お題せる額あり、其裏に福徳二年辛亥九月吉日とある由お記せり、これ等の跡書お合せ考れば、延徳二年庚戌に、始めて福徳の号お設けし事ありしは明也、一説に、辛亥お福徳元とするものあり、蜷川氏所蔵年代記に、延徳二庚戌の次、明応壬子の前に、福徳辛亥とかヽげたり、又本土寺過去帳にも、妙生尼福徳元辛亥二月朔日、匝嵯道高禅門福徳元辛亥九月十七日、同鏡林徳福徳元辛亥八月十八日、禅師阿日応福徳元辛亥十一月廿四日とあり、この二書辛亥お元年としたれ共、この年代記は年お追て記せしものにて、改元の年迄は前の年号に従ひ、翌年の所に改元の号おかヽげし例あれば、こヽも其類にてありけんも知られず、又過去帳も月相齟齬して、前に載たる所は庚戌元年とし、こヽに引たる所は辛亥元年に作りたれば、二説の内何れか誤なる事は論なし、さらば諸書にかなへる庚戌元年お以て是とすべし、又一説に、壬子お元年とするものあり、本土寺過去帳に、差姓入道福徳四乙卯年七月十二日とあり、乙卯は明応四年也、この乙卯より送算するに、元年壬子にあたれり、然れどもこの過去帳齟齬多く、且他書に於て元年壬子に作るものなければ、其誤たる事明なり、又思ふに、明応四年に至りて、たま〳〵福徳の号お用ゆべき事有けんに、其年迄連続して用ひざる号なれば、明応の四年おとりて福徳四乙卯と記せるものにてもあるべし、妙法寺過去帳に福徳二あり、又関東の俗諺に、僥幸お得たるお福徳の三年めと雲ひ、本土寺過去帳に、妙泉福徳三十二月四日、妙正福徳四年正月六日とありて、五年以後の号おうけたるもの見へず、これお以て考れば、福徳の号四年行はれたる事明也、さらば延徳二年庚戌に始まり、明応二癸丑に止まりしと見へたり、