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逸年号考
弥勒元年〈陸奥国耶麻郡新宮神器銘〉
越後の穂積保が雲、弥勒元年辛卯お以て承安元年の辛卯なるべしと雲は、承安二年民間訛言して、泰平の年号お唱へたるも同じ事にて、此時平相国入道権お専らにして朝廷お蔑にし、人民背きて弥勒の出世お願ひ、或泰平の時お思ひ、民間に流言して、平氏の亡べき先兆と雲て、然るべけれども、承安の頃には地頭の号なければ、此年の辛卯にては決てあるべからず、鎌倉時代の辛卯の年にして、寛喜三年の辛卯か、正暦四年の辛卯か、正平六年の辛卯ならんか定がたし、もし正平の辛卯なれば、当時天下大に乱れて、南北両年号並行はれたる故に、かヽる異年号も出来たるならん歟と雲り、されど地頭の称は、河内国小松寺縁起、保延五年奉賀帳寄附名簿に、交野郡領家代蓮覚房、高宮郷地頭代宗時、田原郷地頭代僧道印、寺村郷地頭代蓮信、同郷下司代信教、田原郷公文代教智、鷹山郷下司代西信、甲賀郷目代定信雲々とあるは、文治より四十六年前にして、承安二年より三十三年以前に係れり、〈◯下略〉