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小朝拝は、朝拝畢りて後更に、皇太子以下大臣公卿の天皇お拝する儀なり、故に其始は毎年朝拝と共に並び行はれしが、後には朝拝ある年は小朝拝お行はずして、朝拝と小朝拝とは、年お隔てヽ迭に之お行ふに至れり、然るに朝拝は大極殿にて行はるヽ大礼にして、百官悉く預り、小朝拝は清凉殿にて行ひ、殿上の公卿侍臣のみ拝する儀なれば、朝拝に対すれば私礼なり、是に由りて延喜五年勅して、王者に私なしとて之お廃止せり、然るに歳首拝賀の礼なきは、臣下の情義忍びざる所なりとて、群臣固く請ひ申しヽかば、同十五年に再び旧に復することヽなれり、爾後朝拝は漸く廃たれ、一条天皇以後に至りては、専ら小朝拝のみ行はるヽことヽなれり、降て後土御門天皇の時に至り、応仁の乱後二十余年間、総ての朝儀と共に中絶せしが、同天皇の延徳二年に、元日節会等と共に再興せられたり、小朝拝の儀は、朝拝に比すれば極て簡略にして、天皇清凉殿の御倚子に出御あり、王卿以下東庭に列して拝舞し、皇太子は或は参上し、或は然らざることもあり、雨儀の時は、仁寿殿の階下又は南廊等にて行ふお例とす、此儀も朝拝の如く元日に行ふことなれども、日蝕に由り、或は関白の不参等に由りて、二日に行ひしこともあり、又天皇其年の元日に元服ある時は、其後宴と共に三日に行ひしこともあり、其他不予、諒闇、物忌、雨湿等の時、及び日次宜しからざるか、又は兵乱などある時は、停止せらるヽ事、総て朝賀に同じ、但事故なくして停止せし事も一二の例なきにあらず、花山天皇の寛和元年、称光天皇の応永三十年の如き是なり、