[p.0450][p.0451]
愚管抄

知足院殿〈◯藤原忠実〉申されけるやうは、君の御ゆかりに不慮の籠居し候にしかども、摂籙は子息にひきうつして候へば、よろこびて候、いま一度出仕おして、元日の拝礼にまいり候はん、さてこの関白が上に候はんと申て、天承二年正月三日なん、たヾ一度出仕せられたり、其日は二男宇治左府頼長の君は中将にて、下がさねのしりとりてなどぞ、物語に人は申す、此日摂政太政大臣忠通、次に右大臣にて花園左府有仁、三条御子也、次内大臣宗忠、家人也、其次々の公卿さながら礼ふかく家礼ありしに、花園大臣一人こそえみて揖してたヽれたり、いみじかりきとこそ申けれ、すべて知足院殿は御執ふかき人にや、此拝礼に参てとしよりやまひあるよしにて、いまだ公卿列立とヽのはらぬさきに、脚病ひさしくたちて無術候とて、かつ〳〵拝候はんとて、いそぎ物せられけり、おきあつかはれければ、摂政太政大臣よりてたすけ被申ければ、諸卿の拝いぜんにいでられけるに、内大臣以下家礼の人多くありけるおも、ひとに見えんとにや人いひけり、時にとりていみじかりければ、ふるまひおほせられけり、