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元日節会は、正月元日天皇殿上に出御して、群臣に宴お賜ふ儀にして、即ち小儀なり、元正天皇の霊亀二年より行はる、蓋し是より先き、文武天皇の大宝令に一年の節日お定め、元日お以て其首に居きしかば、元正天皇は此制に拠りて行ひ給ひしなるべし、其殿は元正天皇より孝謙天皇までは、或は朝堂に於てし、或は中宮に於てし、或は薬園宮、中務の南院等お用いしこともありて、一定せざりしが、嵯峨天皇に至りて豊楽殿お用い、淳和天皇は紫宸殿お用いられしより、其後多くは此両殿に於てすることヽなれり、節会お行ふ時は、先づ内弁以下の職員お定め、内弁は上位の大臣之に任じ、他は散状にて之お命ず、節会式には、先づ諸司奏とて、中務省よりは七曜暦お奏し、宮内省よりは氷様及び腹赤贄お奏する儀あり、〈後には外任奏おも加ふ〉次で群臣殿上の饗座に著き、酒饌お賜ふ、此間吉野の国栖は歌笛お奏し、大歌別当は歌人お率て立歌お奏し、治部省は雅楽寮の工人おして立楽お奏せしむ、宴将に終らんとするに臨み、宣命の大夫、版位に就きて宣命お読めば、群臣殿お下りて称唯拝舞し、順次禄お賜ひて退出す、若し物忌、忌月等に当り、或は即位以前なれば、天皇出御せず、又忌月、災異、兵乱等の時は、音楽お停止す、其他日蝕の時、又は当日に天皇元服ある時は、二日若しくは三日に延引し、諒闇或は兵乱等の時は、平座見参とて略儀お用いるか、或は全く節会お停止するお例とす、殊に後世兵乱相継ぎ、朝儀荒廃するに及びては、用途の不足によりて毎に行はれず、応仁乱後の如きは二十余年間中絶し、長享、延徳の頃に及びて再興ありしかども、其後復た毎年之お行ふこと能はず、織田氏興りて皇室お尊び、次で豊臣氏、徳川氏等一統の業お成すに及び、天正の末年より漸く昔日の儀に復することお得たり、
節会の日、群臣の装束は、文官は其位次、官職に応じて、有文帯又は巡方帯に魚袋お著け、飾剣又は螺鈿剣お用い、武官は巻纓に闕腋の袍お著くるお例とす、