[p.0587][p.0588][p.0589][p.0590][p.0591]
年始には、一月一日お特に元日と称して之お祝し、三元、〈歳の元、時の元、日の元、〉三始、〈歳の始、月の始、日の始、〉三朔、三朝、〈歳の朝、月の朝、日の朝、〉四始〈歳の始、時の始、日の始、月の始、〉等の名あり、後世は三元お転じて元三とも雲ひ、其他三け日、〈一日、二日、三日、〉五け日〈一日、二日、三日、五日、十五日、〉等の称もありて、何れも年始の祝日とせり、朝廷の年始の祝には、三け日の間朝夕の御祝あり、朝は朝の物お供じて、親王女御も相伴あり、典侍、掌侍、命婦等、何れも天盃お賜ふ、夕は三献の式ありて、典侍等の外、伺候の公卿にも天盃お賜ふお例とす、年始には、天皇親ら院女院等に行幸して歳首お賀し給ひ、院女院等よりも答礼あり、皇太子以下朝臣の拝賀には、もと朝賀の儀あり、朝賀廃れて小朝拝の儀ありしも、〈朝賀、小朝拝の事は別に其篇あり、〉後世は別に諸礼とて、親王摂家お始め、門跡、寺僧、社人、医師の類に至るまで、各々贄お献じて私に年始の礼お行へり、後陽成天皇の慶長初年頃までは、其期日も一定せざりしが、後水尾天皇以後は略々定まりて、摂家は三け日の間に、親王家は四日迄に、其他は八日より十日迄の間に、参内することヽなれり、されど時に臨みて延促あり、殊に遠地の寺社に至りては、正月の末若しくは二月の初に入りて、参賀することもありて、自ら一様ならず、其他二日、三日、四日の間に、牛飼童の御礼あり、御領農民の参賀あり、共に後世の事なりとす、又拝礼とて三け日の間に、朝臣の院、東宮、及び女院、皇太后、皇后、中宮等に参賀するの儀あり、災異ある時は停止せらるヽお例とす、其他足利氏の時は、将軍親ら参内院参して年始お賀し奉り、徳川氏の時は、将軍の名代として高家お遣はし、大刀折紙馬代、其他種々の物お献じて、年頭の礼お行へり、
幕府の年始の祝には、足利氏にては五け日の間、昆布勝栗等にて三献の祝あり、将軍の一族互に往来して、献酬の礼お行ふ、徳川氏にても略々之に同じ、武臣参賀の式は、鎌倉幕府に在りては、三け日の間重臣代々埦飯お献じ、群臣庭上に列坐して剣、弓箭、行騰、沓、砂金、馬等の引出物お進め、宴お賜ひ楽お張るお例とす、足利氏の時は其儀稍々備り、元日には、将軍対面所に出で、三管領お始め、大名、御供衆、番頭、節朔衆、及び日野三条以下の公家衆等、一人づヽ進みて盃酒の礼お行ひ、各々練貫お賜ふ、三け日の間斯の如し、四日には、陰陽家、観世大夫等の拝礼あり、五日には、吉良、澀川、石橋等の諸大名、及び関東衆の参賀あり、其他八日より月末に至る迄の間に、関東管領、遠地の代官、各種の職人、猿楽等の参賀あり、三職は五け日の間、金覆輪の大刀お献ず、其他は或は献じ或は然らず、皆其家格官職によりて、自ら一定の制あり、徳川氏一統の業お成すに及び、旧規お参酌して新儀お定め、元和二年正月より之お行ふ、元日には、三家三卿お始め、譜代の大小名諸有司、及び法印法眼の医師、画工、観世等、各々其家格に応じて大刀折紙お献じ、盃酒時服お賜ふ、二日には、国主お始め、外様の大小名、及び無位の医師、連歌師、諸職人、猿楽等の参賀あり、盃酒并に禄お賜ふこと前に同じ、三日には、無官の大小名及び証人陪臣等の参賀あり、斯の如くして式全く終る、蓋し武臣の参賀式は鎌倉幕府に創り、足利氏に整ひ、徳川氏に大成したるなり、寺社の参賀は、足利氏にては、正月八日より廿三日迄の間に於てし、徳川氏にては、同五日六日お以てす、然れども遠国のものは、二月或は三月に至りて参賀するもあり、是れ亦其格式に由りて、進物禄物等均しからず、門跡の参賀に至りては、使お遣して之お迎へ、礼畢て退出する時は、将軍親ら之お送るなど、待遇大に普通の寺社に異なるものあり、又徳川氏にては町人の参賀あり、江戸、京都、大阪、奈良、堺、伏見等のものは、正月三日お礼日とし、遠地のものは定日なし、又徳川氏にて参賀の使お朝廷に発するに就きては、朝廷よりも答礼として、勅使、院使、東宮使等の参向あり、将軍に対顔して祝詞お陳べ、大刀馬代等お賜ふ、儀畢て後、日お期して勅使以下饗宴の事あり、勅使の参向と共に、親王、摂家、公家衆等も、或は親ら参向し、或は使お遣して年始の礼お行ふ、門跡も多くは此時に参賀するお例とす、参向の期は時に由り変更あれども、通常二月或は三月中に於てせしが如し、而して幕府年始の諸礼は、是お以て大抵最終とするなり、
古は正月の節に当り、猥に他人お拝することお許さず、然れども兄姉以上の親、及び氏長お拝することは、大宝の制にても之お許せり、されば年始に父母お訪ふは勿論にて、氏人の其宗家に拝賀することも古より行はれ、後世は家領の農民に至る迄、各々其領主に年始の礼お行へり、又民間にては、各自互に贄お執りて回礼お行ひ、或は賀状お往復して新年お祝すること、今日と異なることなし、
年始の服装は、身分家格に由りて一様ならず、諸礼の日は、天皇は引直衣に下襲、前張お著し給ひ、諸臣は必ず飾剣お帯し、魚袋お著くるお例とす、幕府にては、足利氏の時は、将軍は烏帽子直垂に、唐織物の服お著け、武臣は大口、直垂、又は小素襖にて出仕し、徳川氏の時は、将軍はもと足利氏に同じかりしが、文政十一年以後は、立烏帽子、小直衣に、指貫お著することヽなり、武臣は官位家格に従ひて、直垂、狩衣、大紋、布衣、素襖等の別あり、民間にては一般に上下お用いたり、
朝廷年始祝には、上に述べたる朝夕三献の祝の外に、御薬、歯固、節供等お供する式あり、御薬お供する事は、嵯峨天皇の弘仁年中に始まり、三け日の間、天皇生気の色〈当年の吉方の色お雲ふ〉の服お著けて清凉殿に出御あり、一献に屠蘇、二献に白散、三献に度障散お献じ、殊に第三日には、膏薬お献ずる儀あり、典薬寮の官人及び陪膳の女官等に禄お賜ふお例とす、院宮にも亦此儀あり、民間にても一般に屠蘇お飲みて之お祝ふ、皆其年の疾病邪気お予防せんが為めなり、歯固は延年固齢の義なりと雲ふ、其饌に菜蔬、魚類、鏡餅等お用いる、もと三け日の儀なりしお、後世は略儀となりて、正月の中吉日お選びて、僅に一日之お供することヽなれり、院宮及び幕府等にも亦此儀あり、又節供と雲ふあり、強飯、魚類、菓物等お具して、三け日又は五け日の間之お献ずるなり、院宮、幕府等亦然り、
朝廷の群臣に宴お賜ふには、元日に節会あり、二日に淵酔あり、中宮、東宮等、亦饗宴の事あり、共に其篇に詳にす、而して幕府にも亦年始に饗お賜ふことあり、殊に徳川氏にては、元日武臣の賀礼お受くる前に、先づ黒書院にて、世子以下一族の献酬あり、兎の吸物お出し、老中近侍の輩相伴するお例とす、又埦飯と雲ふあり、鎌倉幕府の時、三管領及び大名より、五け日の間交番に之お献ず、御成始とて、正月中将軍の、管領諸大名等の邸に臨める時も、亦此埦飯の饗応お受くる例なり、其後幕府には此儀絶えしかども、徳川氏の時在府の三家に於て、年始の祝儀として、老中以下お饗応する事あり、町奉行の宅に於て、与力同心に埦飯の饗応あり、其他民間にては埦飯振舞とて、親族朋友お招きて盛に之お行へり、又節振舞(せちぶるまひ)と雲ふあり、正月中貴賤共に各々其分に応じて饗お設け、互に親戚知人お会して歓お尽す、蓋し佳節の饗燕の義にして亦埦飯の類なり、其他年始の祝儀として己おも祝ひ、客おも饗するものに種々あり、蓬萊は、熨斗、昆布、橙、勝栗、海老等お三方盤に飾りたるお雲ひ、雑煮は、鏡餅に、芋、牛蒡、蘿蔔、鮑、田作等お加へ、煮熟して羹と為したるお雲ふ、年始の餅お鏡餅と称するは、其形の鏡の如円形なればなり、又大服とて、元日に若水お沸かして茶お点じ、梅干お入れて之お服す、胸隔お清くし、一年の邪気お禳ふの意なり、凡そ年始の祝儀として用いるもの、一として祝意お寄せざるはなし、例へば大服に梅干お用いるは、其面上の皺に似たるお以て、延齢お祝するなり、雑煮に芋及び数の子お加ふるは、共に多子の義に取るなり、蓬萊に昆布お飾るは、よろこんぶの縁語なればなり、独り此等の飲食の中に祝意お表するのみならず、使用の言語も亦務めて不祥お忌避す、例へば衰日お徳日、又は得日と称し、疾病お歓楽と唱へ、寝起お稲積、稲挙など雲ふ類是なり、蓋し正月は一年の始なれば、百事凶お避けて吉に就き、以て前途の福祉お希ふの意に外ならざるなり、