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後水尾院当時年中行事
上正月
七日、〈◯中略〉このごろ諸礼とて、宮門跡、摂家方、御びく尼衆、外様衆、院家、諸寺の僧、医師にいたる迄、年始の御礼お申す、慶長の始つかたまでは、一人二人づヽ不時に参りしお、近年は日お定められて各参る事になりぬ、法中は修正にひまなければ、今日迄は参内せず、近来はヾかることのやうになりて、入道尼風情も参らねば、八日より已後の事なり、されば医師などは、御用あるときは、八日より内にめさるヽこと、又常の事也、諸礼の日は、〈◯中略〉内々宮門跡、摂家方等は、勾当局より伺公なり、まづ局にて一献あり、その後常の御所にて御対面、二こん参る、二献め第一の人の酌にて進上あり、おの〳〵に天酌天盃おたまふ、御比丘尼衆も同じ、日野、烏丸、柳原は外様なれど、常の御所〈常御所、日御座、清凉殿、皆一所にて三つ名なり、〉にて御対面あり、たれにても申つぎ御礼申て後、さし席〈御ひさしのひつじ申の角のたゝみ一帖お撤して、さし席一枚おしく、此さしむしろ、正月朔日より敷て、正月中あるなり、〉に候ず、御はいぜんに候ずべき人、手長の人、しきじ等、兼てより申の口に伺公して、御さがづきお供ず、次にさかな御前に参りて後、さしむしろの衆にもたぶ、六位蔵人是お役す、南の戸お明て道とす、手長の人酌にて天盃たぶ、廂の中央にすヽみ出て給はる、本座にかへりて御さかなおとりて一人づヽしりぞく、おのおのしりぞきて後御前撤す、入御、是は外様ながら内々おうけたる心也、此中日野は、武家の伝そうに定められて、後に内々おぼしくはへられて、右の中にはいらざれども、近き比迄の事なれば、三人の名おばあげたるなり、若諸礼十五日已後なれば、已後は三さかなお用ひざれば、こぶあはびおすうる也、院女中などまいらるヽことも、十五日已後なれば此定なり、正親町院へ後陽成院の女中年始にまいりし時も、若十五日已後なれば、こぶあはびおすえられしと、宮内卿かたりし也、外様の摂家衆、外様の門跡衆、外様の番衆、院家、諸寺の僧等は、清凉殿の北の方にて御たいめんあり、八幡別当、本国寺、清水寺、本願寺、医師やうのものは、小御所にて御対面あり、