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官中秘策
十五年中行事
兎之御吸物之由来者、御先祖世良田左京亮有親公者、上野国徳川お領し、鎌倉之公方持氏之御家人也、然るに永享年中、足利義教将軍者、鎌倉之公方足利左馬頭持氏と、不和之事出来して合戦有しに、持氏公終に自害ありし後は、関東は皆京都将軍之下知に応じ、管領上杉憲実が威勢盛に、大名彼に相従ふ、東国の威権大に衰へり、鎌倉公方の残党お捜しに、就中新田一族においては、根お断葉お枯すべしとの下知なり、然るに有親公は、本より新田の族なる故に、徳川に安堵なされがたし、永享十一年三月上旬、有親公、同子息親氏も徳川お遁れ出、相州藤沢浄光寺において髪お剃、有親公は長阿弥、親氏公は徳阿弥と号せり、左あれども東国のすまひ協がたきにや、藤沢お立出、信州に向ふ、去る程に信州小笠原清宗が三男、林藤助光政といふものあり、持氏在世之時、数年近習して勤仕しける所に、讒するによりて知行没収せられ、名字お政林と号し、信州の山中に蟄居して有ける処、有親、親氏、鎌倉にありける時、互むつまじかりけるが、十二月下旬、彼藤助お尋て彼所に至りける、光政大に悦び、如何もして饗応なさんとすれども、家貧して心に任せず、十二月廿九日、光政雪お踏わけて狩せしに、兎お一匹捉得たり、翌十二年庚申正月朔日、有親父子へ雑煮おすヽめて、此兎お吸物にして年始お祝しけり、自是兎の吸物お以て、徳川家の家例とせり、