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長崎港草

紅毛江府拝礼 阿蘭陀平戸へ著船のときも、年ごとに年頭の御礼として、江府へ加比旦参勤いたし、献上物品々お捧げ、御役人方へ進物お上るに、松浦家より撿使馬廻りの侍一人、徒歩一人、通詞以下差添、前年の冬平戸お出立し、翌年の正月拝礼お勤む、寛永十八年長崎へ来てより以来は、御奉行所より撿使として、与力同心町使大小通詞以下数十人差添られ、前年の冬長崎お出立、翌年正月拝礼お相勤む、正保四年六月、黒船二艘来りし時、其年の加比旦へんてれきこえた、例の如く参著するに御咎めあり、年来御制禁の黒船日本に来るお注進すべき処に、其儀なく候儀不届なりとて、即拝礼御受無之して、空しく長崎へ帰る、其翌年慶安元年、加比旦てれきすのく渡来たれり、上使井上筑後守下向ありて、目明仲庵お以て、去年黒船来りし時、注進せざる趣御吟味あるに、加比旦其儀曾て不承及旨、横文字の書一通差出す、即通詞に命じ和解の文認させ、御帰府の時、江府へ持参あるに、則御免あるべき旨仰ありて、以前の如く拝礼相勤むとなり、明暦三丁酉正月十八日江戸大火以来、万治三年まで四年間、正月ごとに阿蘭陀旅宿類焼せしに付、翌寛文元年辛丑年命ありて、正月十五日長崎お出立、三月朔日拝礼すべき旨仰出され、夫より以来定例となる、夫より七十四年後、享保十八年癸丑の年、西国飢饉にて世間物騒しくなるにより、四月十五日当地出立す、 阿蘭陀の拝礼献上物と雲は、端物は猩々緋以下奥嶋にいたる、其外金唐草硝子器物名酒等也、従御本丸呉服三十、従西御丸呉服二十、大小通詞へ白銀拝領なり、又御役掛りの諸家へ、阿蘭陀人の進物各品あり、従諸家又阿蘭陀へ物お賜ふ也、昔しより献上の大概如左、 献上物銀高四十三貫目分 御老中、銀高五貫目分、御坊主頭衆、五拾目分、御若年寄、同弐貫目分、秋鹿長兵衛、六拾目分、御支配人、同弐貫三百目分、御給人衆、弐貫六百目分、寺社奉行、同壱貫百目分、御下役衆、壱貫百目分、江戸町奉行、同壱貫目分、町使二人、弐百五拾目分、御諸司代、同壱貫七百目分、筆者二人、弐百三拾目分、京町奉行、同七百目分、料理人二人、百三拾目分、大坂町奉行、同四百目分、〈江戸和蘭陀宿 長崎源右衛門〉壱貫弐百目分、同御家老衆、同弐拾目分、同家来、弐拾目分、百人御番頭、同百拾目分、〈京宿鮫屋与右衛門〉壱貫目分、御徒目附衆、同三拾目分、〈大坂宿 長崎屋五郎兵衛〉壱貫目分、下関宿礼、四拾目分、〈馬指荷宰領駕籠頭〉弐拾目分、