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年始には、上朝廷より下庶民に至るまで、其行事甚だ多端なり、今其記事の以て一篇と為すに足らざるものお合せて、年始雑載と称し、之お年始祝篇の後に附す、門松は、歳首松お門前に立てヽ飾とするお雲ふ、故に後には又之お松飾とも称せり、而して歳尾に之お立て、正月七日に之お撤するお以て、元日より此日までお松の内と称す、然れども或は十五日の爆竹に至るまで之お存するものあり、注連飾は、注連縄に、譲葉、穂長草等お挿みたるものにして、之お神棚、門戸等に施し、以て清浄の意お表す、其之お用いる日限は門松に同じ、年男は、年末歳首の儀式お掌るものお言ふ、足利氏の比より其名見えたりしが、徳川幕府の時、表の方は老中、奥の方は留守居に命じ、煤払、節分及び元三以下、凡て年始の諸祝儀お管せしむ、千秋万歳(せんずまんざい)は、後に万歳と称す、歳首、朝家及び幕府に参り、又民間お巡り、歌舞して歳首お祝する者なり、後世其大和三河等より来るものお大和万歳、三河万歳と称す、鳥追は、蓋し田儔の鳥お駆るに起れり、歳首乞丐の婦女、編笠お頂き三絃お鼔して歌謡する者なり、初夢は、夢の吉凶に由りて其年の禍福お占ふことにて、其夢は節分の夜とし、除夜とし、或は元日の夜とするもあり、二日の夜とするもありて、時代に由り、地方に由りて各々一様ならず、されど足利時代までは、概ね節分の夜にして、近世に至り、漸く変じて二日の夜となりしものヽ如し、初夢の夜、舟の絵お枕頭に置くは、凶夢お見し時、此に附して流さんとての所為なりしが、後には此に米俵及び其他種々の宝物お画き加へて宝船と称し、更に後には廻文の歌などおも書き添ふるに至れり、又毎年正月二日に、禁中より諸臣に賜ひし船の画には、帆に貘の字あり、後陽成天皇の宸筆にして、貘は夢お食ふとの説より起れりと雲ふ、掃始は、上下並に之お正月二日に行へり、而して禁中の掃始には、小法師箒お献上し、幕府の掃始は、老中之お勤むるお例とす、元日に屋中お掃除せざるは、或は新年の陽気お散ぜざらしむる為なりと雲ひ、或は人の其家お離れて後数日の間、家人屋内お掃はざりし上古の遺風なりと雲ひ、或は彼の閩の俗、歳首に糞土お除かざるに拠りしとも雲へり、商始には売初あり、買初あり、売初には商品の初荷お各々其花主に致し、買初には葷莘の類及び蛤海参等お買ふ、正月元日は商賈何れも戸お開かず、売買せず、二日に至りて始て之お行ふ、船乗始も亦正月二日にして、舟人等の水上の安全お祝するなり、江戸大坂等お始とし、諸国浦々に之お行ふ、殊に大坂の船乗始、及び角倉の舟乗始の如きは、其儀の最も盛なるものなり、諸侯にも亦此儀あり、土佐の山内氏の如きは、毎年正月に当主親ら乗船して此儀お行ふお例とす、事は兵事部水軍篇演習条にも在れば、宜しく参看すべし、此他年始には奏事始、吉書始、御判始、書初、馬乗始、弓場始、謡初等の事あり、別に其篇目あれば、多くは省略に従へり、正月七日は、人日と称す、此日若菜の粥お作りて啜るときは、疾病お免ると伝ふ、因て朝廷にては、六日に水無瀬家より七種の菜お献じ、七日に櫃司より供進す、民間にては、六日の夜七種の菜お切るに、声お挙げて之お垂てり、蔵開は、朝廷にて、正月十日より十五日に至る内の吉日お択びて、御蔵お開くの儀なり、商家にては之お十一日に行ひ、帳簿お綴ぢ、雑煮お食して祝せり、鏡開は、正月十一日、武家にて甲冑に供へたる鏡餅お食して祝するお謂ふ、初め二十日に行ひしお、承応元年改めて此日と為せり、十五日は、即ち上元なり、〈上元の事は、時節篇三元条に在り、〉此日も亦七種菜の粥お作りて食とす、後には小豆粥お用い、或は之に餅お加ふるものあり、又十六日、十七日、十八日にも亦粥お食して之お祝せり、御薪は、みかまぎと雲ふ、正月十五日、百官薪お宮内省に献ずる儀なり、事は天武天皇四年に起る、爆竹は、さぎちやうと雲ふ、又左義長、三毬打の字お用いる、左義長は、葉竹に、注連縄、扇等の飾お施したるものにして、之お爆して病魔お畏懾せしむるに起因すと雲ふ、朝廷にては正月十五日、清凉殿の東庭に於て御吉書の左義長あり、左義長は、山科家より之お献ず、次で十八日、又同殿の南庭に於て、諸家より献ずる所の左義長お焼く、並に天皇御覧あり、其之お焼くに方り、陰陽師声お挙げて火声に応じ、鬼面お被りたる童子棒お執りて舞ひ、其他大鼔、羯鼔お擊ち、声お斉しくして之お和す、民間にては、十五日の暁に、廃撤する所の門松、注連飾等お集め、葉竹お其四傍に竪てヽ之お焼けり、二十日正月は、専ら民間に行はるヽ祝にして、正月二十日に、毎家団子等お製して燕遊するものなり、