[p.0866][p.0867]
玄同放言
下植物
正月門松 塩尻〈巻之四湯武篇〉雲、正月門松立る事、藤原為尹の歌に、しづが門松といへば、高貴の家、まして朝家にはなかりしにや、今も朝廷の諸門には、松立ることなしといふ人あり、按ずるに、蔵玉集に年貢の歌お載て、大内やもヽしき山の初代草いくとせ人にふれて立らん、初代草は正月二日、大内に植る松也、門松の事也としるせり、む月二日大内の御門に松立給ひし事ありと見えたり、これも亦おが玉の木にして、門神にひもろけとり付侍る事にこそといへり、解雲、右にいへる為尹卿の歌は、 為尹卿千首 今朝は又都の手ぶりひきかへてちひろのみしめ賎が門松、為尹卿は諸家大系図〈第六〉に見えたり、権大納言為氏卿、〈これお頭流とす〉六世中将〈一雲大納言〉為邦卿の子、左中将正三位応永中の人也、〈一書に応永二十四年正月廿四日薨、為秀の子とするものは非也、為秀卿の孫也、〉蔵玉集もおなじ時代の歌書にて、奥書に二条摂政良基公〈後小松院のおん時摂政し給へり〉注進し給ふよしいへり、按ずるに門松立ることは、応永より三百余年前、堀河院のおん時よりこれあり、 堀河百首〈中除夜〉門松おいとなみ立るその程に春明がたによや成ぬらん 藤原顕季(従三位修理大夫) 又俊恵法師が林葉集〈六雑〉に、正月三日人のもとにまかりたりしに、中門に松おたてヽ、いはヽれたりしかば、 春にあへるこの門松おわけ来つつわれも千世へんうちに入ぬる、林葉集は俊恵法師の家の集也、俊恵は俊頼朝臣の子也といへば、これもふるし、又 拾玉集五 我思ふ君がすみかのおもかげは松たつ門の春のけしきに 大将軍 拾玉集は慈鎮和尚の家の集也、右のよみ人大将軍は頼朝卿也、その書の五の巻に、慈鎮和尚と鎌倉幕府と贈答の歌あまたあり、是その一うた也、かヽれば門松の事、堀河のおん時より連綿として証歌あり、さばれ公事ならざれば、年中行事などへは入られず、故に濫觴は定かならざる也、推て説おなすときは、往古春正月の朔毎に、宮城の中門外に大楯槍お樹らる、〈大礼の時も樹れども、年首お宗とす、〉こは石上榎井二氏の世々掌る所也、聖武天皇の天平十七年春正月己未朔、廃朝なり、このとき俄頃に、山背なる恭仁京に遷らせ給ひしかば、石上榎井の二氏倉卒にして追集るに及ばず、故に兵部卿従四位上大伴宿禰牛養、衛門督従四位下佐伯宿禰常人、大楯槍お樹るよし、聖武紀に見えたり、かやうの事により、田舎にて元朝毎に門戸に松お立て、件の大楯槍に擬したるにてもあらん歟、むかし道次なる石神、或はふりたる樹に注連して神とし祭ること、皇国の習俗也、〈琉球国にもこれらの事あり、琉球事略に見えたり、〉正月には神お祭り、よろづ祝ぐものなれば、彼楯槍に換るに松お用てし、これお石神樹神に象りて、注連引摎らし、各門に立たるならん、この事田舎にはじまりて、後に京師に移りしかば、後々までも、賎が門松と詠みたるなり、今も箱根の山家にては、正月門に松お立てずして、大なる莽草(しきみ)お立つ、豊後にもさる処あり、榊お立つる処もありといふ、榊お立つることは、惟宗孝言の詩句より起る歟、〈◯此下引本朝無題詩、今略、〉こは斎戒のおりなれば、榊おもて松にかへたるよしなり、これらの事お伝へ聞きて、田舎にても、斎する家には、榊お立てたるにより、それさへ例となりたるもの歟、莽草お立つるもおなじすぢにて、清浄お宗とするなるべし、