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甲子夜話

正月門松お設ること、諸家一様ならず、通例は年越より七草の日迄なるが、十五日迄置く家もあり、筑前の福岡侯支侯、肥前の佐嘉侯、対馬の宗氏、予家〈◯松浦〉も同じ、南部盛岡侯、岩城氏〈出羽の亀田〉なども同じ、又宗氏は門内に松飾あるが、玄関の方お正面に向けて、立松お用る所椿お用ゆ、予が家は椎の枝と竹とお立て、松お用ひず、是は吉例の訳あること也、又平戸城下の町家には、戸毎に十五日迄飾お置なり、又大城の御門松も世上とは異るように覚ゆ、今は忘れたり、安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると雲、此余聞及ぶには、姫路侯の家中に、もと最上侯に仕たる本城氏は、松は常の如く拵て表へ不立、裏に臥して置く計なり、これは昔門松お拵へたる計にて戦に出、勝利お得たる古例と雲ふ、又同家中に、もと名波家に仕たる力丸氏の門松は、一方計に立てヽ左右には不設、就ては上の横竹なければ、付る飾も無し、是も半ば拵かけて戦に出でヽ勝利の佳例と雲、又直参衆の曾根内匠は、竹お切らず、中より下の枝お去り、長きまヽにて立てヽ、末葉おつくる、横に結ぶ竹もこれに同じ、〈小川町に居と雲◯中略〉又聞く、新吉原町の娼家にては、門松お、内お正面に立ると雲、是は客の不出と雲表兆なりと、又予が若年の時、上野広小路の一方は、大抵買女衆にて、所謂私窩なり、此戸外にも皆内向きに立たり、其前道は登山の閣老、参政、大目付、御目付など往還あるに、私窩の業お押晴て、目立つやうにせしは、いかなることにや、その辺寛政中より業お改めて、尋常の商家となれり、