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立てぬ松
天保十一年十一月十九日、光格天皇崩御まし〳〵ければ、京中畏りつヽしみて、声高にものいふ人もなし、〈◯中略〉春お迎ふる心がまへは、かつても聞えず、門松しめ飾も、誰かは思ひよらむ、かヽる折にも武家とあるあたりは、正月の設、大方平年にことならず、定まりて出入るものどもヽ、互に新春の祝言おいふめるは、都のうちにも、唐天竺の人の交り住たらむやうに、見なさるるお、さすがにいぶかしみ思へる人々も、少からぬ中に、薩摩の御館の預山田清安、独畏りに堪へず、殿の京におはしまさば、いかでかさる手ぶりには交はりたまはむ、〈◯中略〉せめては触穢の日数過してこそ、年並の春にも逢はめと、男々しく思定められたるお、土佐の御館の預なる柴田勝世、おなじ心には競進みて、かのいぶかり漂はれし人々にも、この思取れるやうども伝へられしかば、其交らひある九け所の御館は、一例に事定まりて、門松もしめ縄もなく、歳暮年始の行ひもすべて省かれたれば、実に亮闇のとしのさまは、かくすべくぞ見えたりし、
 ◯按ずるに、此時門飾有無の議あり、又慶応二年、孝明天皇崩御の時、松飾取払ひお命ぜし事は、礼式部服紀篇喪中雑制の条下に載す、