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梅園日記

七草 世説、故事苑に七草お垂事、事文類聚に歳時記お引て曰、正月七日多鬼車鳥度、家々垂門打戸滅灯燭禳之、和俗七種菜お打つ唱に、唐土の鳥、日本の鳥、渡らぬさきに、と雲るは、此鬼車鳥お忌意なり、板お打鳴すは、鬼車鳥不止やうに禳也といへり、按ずるに、此説是なり、桐火桶〈定家卿の作と称す〉に、正月七日七草おたヽくに、七づヽ七度四十九たヽく也、七草は七星なり、四十九たヽくは七曜、九曜、廿八宿、五星合て四十九の星おまつる也、唐土の鳥と、日本の鳥と、わたらぬさきに、七草なづな、手につみいれて、亢觜斗張とあり、亢觜斗張は、廿八宿の中の星の名なり、〈また旅宿問答に、七日の七草は、在天七星、在地七草とあり、〉星の名お書て、鬼車鳥の類の夭鳥お逐事は、周礼秋官に、硩蔟氏掌覆夭鳥之巣、以方〈注に方版也〉書十日之号、十有二辰之号、十有二月之号、十有二歳之号、二十有八星之号、〈注に自角至軫〉県其巣上則去之と雲り、夭鳥は鬼車の類なり、元の陳友仁が序ある無名氏周礼集説に、劉氏曰、夭鳥者陰陽邪気之所生、故欲妖怪而不祥於人間、夜則飛騰、所至為害、若鬼車之類皆是、〈書録解題に、周礼中義八巻、祠部員外郎長楽劉彝執中撰とあり、劉氏はこれにや、〉と見えたり、三善為康の掌中歴に、永久三年〈三年の二字、拾芥抄に拠て補ふ、〉七月の比、都鄙に鵼ありしに、十日、十二辰、十二月、十二歳、廿八星の号お、方に書て、懸たる事見えたれば、こヽにも周礼の説行れたるお知るべし、後世の書にも、清異録に梟見聞者必罹殃禍、急向梟連唾十三口、然後静坐、存北斗一時許可禳、また埤雅釈鳥に、伝曰梟避星名、これ亦星の悪鳥お禳ふ事お知るべし、彼鳥夜中飛行すといへる故に、六日の夜より七日の朝まで、七草お打なり、七草双紙に、七草お柳木の盤に載て、玉椿の枝にて、六日の酉の時に芹おうち、戌の時に薺、亥の時にごげう、子の時にたびらこ、丑の時に仏の座、寅の時に鈴菜、卯の時にすヾしろおうちて、辰の時に七草お合て、東の方より岩井の水おむすびあげて、若水と名づけ、此水にてはくが鳥のわたらぬさきに、服するならば、一時に十年づヽの齢おへかへり、七時には七十年のとしお忽に若くなりて雲々、此はくが鳥の事は、いふにもたらぬ作りごとなれど、今も六日の酉の時よりたヽく也、〈亦根芹の謡にも雲り〉桐火桶に七度たヽくとある証とすべし、