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元寛日記
元和二年正月七日は、七種の糝御祝儀あり、此事兼日より儒者陰陽寮博士出家等に御尋、依て銘々記録お以てこれお献ずといへども、其説区々にして一決ならず、亦禁裏にも仰遣はさるヽ処に、子の日の若菜、又七種の若菜の事、是お書記し遣はさるヽ皆不同なり、故に世俗用ゆる所お以て、定式とせらるヽ、彼の文お記し則こヽに記す、〈◯中略〉 七種若菜 人王六十代醍醐天皇の御宇延喜十一年辛未正月七日に、丹後国より七種の若菜お供ず、是始なり、内蔵寮并に内膳司より正月上の子日これお献ず、 或雲、七種は、白穀、大豆、赤豆、粟、柿、小角豆なりと雲々、 右者九条殿より進ぜらるヽ記録也、 七種糝、正月七日は食糝事、正月一日お鶏日と雲、二日お狗日と雲、三日は猪日と雲、四日は羊日、五日は牛日、六日は馬日、七日お人日と雲、人日は人の生始たる日なれば、殊更以て五節句の第一として是お祝す、此日七日七種の糝お食する事、万草生長の故也、 右者一条殿より進ぜらるヽ所也、 七種粥は人王五十九代宇多天皇の御宇、寛平二年庚戌正月十五日、七種の粥お献ず、是は若菜の事にあらず、 右者儒家の献ずる処なり、 簠簋内伝に雲、七種の粥は不動明王の七把の髪悪魔降伏と雲々、 右者陰陽博士献ずる所也 七種粥の事 昔天竺に仏性国と雲あり、其国に壱人の大外道あり、大曇王と号す、三界にてあらゆる所の大外道也、仏神三宝王法お穢し妨る、其国に加璃帝有り、彼王大曇王お責殺し、其霊祟り人民お悩す、これに依て加璃帝王渠肉お取て還丹謂薬に煉国土に呑しむる、病ある者皆若やぎ忽病愈る、其より国土豊饒也、長命なり、是により承続て三国にこれお用る、去れば七日の糝も大曇王が肉身おきりあつめ、肉還丹とするといへり、故に七日節句の初とす、或は七種と雲は、所謂る芹(せり)、薺(なづな)、菁(すヾしろ)、蘩蔞(はこべ)、御形(ごぎやう)、仏の座、是お七種の粥とすと雲々、 右は仏師の沙汰せしむる処也 右家々の記録上覧あり、其説区々にして一決ならず、これに依て仰に曰く、七種の糝の事は異説多し、世俗に用来るお以て是とすべき旨仰付らるヽ、依て世俗の式お用る、其外京都五山鎌倉五山并に総録司者御礼、或は名代御目見の次第、座位等の事は、昔足利三代義満将軍の時、式お定らるヽ所に仰定らるヽ、