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湯土問答

問、物の具にもちお供する事、いづれの時よりか始候らん、戦国の時に筆記せしものには、曾て其事見えあたらず候が、もしや太平の時に及て始り候歟、 答、鎧の餅の古くは聞えざること、されども御当家太平の代より先、織田豊臣の世に始りしことにや、羅山文集に鎧餅其起お未知とあり、考るに秀吉公薨ずる慶長三年、羅山十六歳なり、其頃以後に始りしことならんには、其の起お現在見聞あるべきことなるに、起りお知らずと書したれば、猶其より先に起りしなるべし、一条兼冬公の天文十三年に書給ひし世諺問答に、節分にせうのもちひとてくひ侍る、此のこと更に知がたし、此もちひお食へば、物に勝つと雲ふ功能侍る由、申伝たる斗り也と書き給ひしも、此せうのもちひの転じて、鎧の餅と雲こと起りたることもあらん歟、鎧の餅お食こと、今は多くは正月十一日お用ふ、是は台徳院将軍〈◯徳川秀忠〉正月廿日に薨去ありしより後のこと也、夫迄はなべて廿日お用たること、是も羅山文集に見えたり、京師并五畿内には廿日正月と雲て、小豆餅或小豆強餅お調して、廿日の日に祝ふこと今も猶ありと雲、鎧餅お調て祝ふことも、其始廿日正月に混じて起りしことにもあるや、異国にも此日紅縷お以て餅お繫ぎ、屋上へ擲上ぐ、これお補天と雲と、陳眉公が秘笈に見えたりと雲にや、