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梅園日記

流行正月 文化十一年夏のころ、某の国某の山にて、猻(さる)、人の如くものいひけるやうは、ことし疫病にて人多く死ぬるなり、ことしは過て来年の正月になりぬるさまに、門松たて雑煮餅くひなどせば、病おまぬかるべしといへりとて、かの説の如くになしたる人もいと多かりけり、これ亦前にも有しことなり、〈◯中略〉又伊勢安斎翁の洗革記雲、安永七年五月晦日、江戸にて大晦日と称して、節分の如く鬼やらひの豆おうち、厄払の乞食いで、六月朔日お元日と称して門松おたて、雑煮お食し、屠蘇酒おのみ、鏡餅お設祝ふ、町家にては商おやめ、戸お立よせ、簾おかけ、買人来れば、雑煮お出し酒おすヽむ、宝舟の画お売者も出たり、江戸中かくの如くしたるにはあらざれども、此事おなす者多し、もと若狭国よりはやり出て、諸国につたへけるとぞ、彼国の土民、山中にて異人に逢しが、かくの如くすれば疫病お除くと教へし故に、行ひはじめたりといふ、〈◯中略〉是お流行正月といふ、冬の日といふ誹諧集に、つるべに粟お洗ふ日の暮、といふ句に、はやり来て撫子かざる正月、にと付たり、冬日注解に、前句のさまお女の業也と見たれば、撫子は子といふ語縁にして、疱瘡か麻疹のまじなひ(○○○○)に、正月お仕直して祝ふなるべし、時ならず正月のはやるといふ事、都鄙ともに有こと也、昔も四月朔日親椀おもて、豆打して、年お取直せば、疫難お除く也とて、正月のはやりし事ありけるとぞとあり、また叢桂偶記に、凡世俗遇疫邪災疾凶荒之歳、則不問何月何日、仮作正月摸様、以為除旧迎新、凶災可転、相呼曰流行正月、香祖筆記曰、乙酉夏、二東多疫、忽有郷人持斎素者、言以五月晦為除夕禳之、則疫可除、一時村民、皆買香燭祀神祇祖先、亦妖言也、乃知西土亦有流行正月とあり、又按ずるに、清康紀聞拾遺〈学津討源本〉に、去年〈按に清康元年たり〉十二月立冬、術者王浚明〈学海類編本、王浚明に作れり、〉以謂国家大忌丙午冬三月、可於此日借春致祭打牛如立春、朝廷従之、聞者或以為笑、天時凱可借也、但京畿之陥、竟不出此月、理或近とあり、流行正月の漢名借春なり、〈◯下略〉