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古今要覧稿
時令
若菜〈わかな〉 正月子日に、若菜のおもの調して奉りし事は、嵯峨天皇の弘仁四年お始とす、〈河海抄引内宴記〉これは唐の大宗の旧風にならひ給ひしと〈同上〉いへり、それより代々の天皇も、つぎつぎに此事お行ひ給ひしなり、おほよそ若菜とは、皆人食ふべき春草の若苗おさしていひし名なれども、その食ふべき春草の中にも、初春の頃に生出るものは、薺、おはぎ、芹などのたぐひにて、今いふつまみな、或はうぐひすなの類にてはあるべからず、その若菜おつむには、人々野辺に出て子日するとて、小松お引けるよすがに、此菜おもつめばなり、その故に寛平八年、宇多天皇の雲林院に行幸し給ひし時の序文に、倚松樹以摩腰、習風霜之難犯也、和菜羹而啜口、期気味之克調也と〈菅家文草〉いひ、藤原元真が歌にも、霞たつ野辺の若菜おけふよりぞ松のたよりにと〈家集〉いひ、また院のみやの御息所、わかなお給ふに小松ありて、片岡の野辺のこまつお雪間より〈同上〉などみえたり、扠子日の遊お、或は朱雀院、円融院などの御時より有けるにやと〈公事根源〉いへども、大伴家持の歌に、初春の初子のけふの玉はヽきと〈万葉集〉よめるによれば、いと旧より此遊はありしなり、され共その歌に、小松引よしはみえねども、柿本人丸の子日の歌に、二葉より引こそうえめと〈家集〉よめるにて、子日に小松引ける事は、承平の頃より始りしにはあらざるなり、然るお後の世に至りて、子日の若菜といへば、ひたすらに七種の菜おそろへて奉るとのみおもへるは、古おしらざる誤り也、