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玉勝間
十三
白馬節会 正月七日の白馬節会の白馬、古は青馬といへり、万葉集廿の巻に、水鳥乃(みづとりの)、可毛能羽能伊呂之(かものはのいろの)、青馬乎(あおうまお)、家布美流比等波(けふみるひとは)、可芸利奈之等伊布(かぎりなしといふ)、とあるお始として、続後紀、文徳実録、三代実録、貞観儀式、延喜式などに多く出たる、みな青馬とのみ有て、白馬といへることは一も見えず、然るお円融天皇の御世天元のころよりの家々の記録、又江家次第などには、皆白馬とのみあるは、平兼盛集の歌に、ふる雪に色もかはらで牽ものおたが青馬と名づけそめけむ、とよめるお見れば、当時既く白き馬お用ひられしと見えたり、然れば古よりの青馬おば、改めて白き馬とはせられたるにて、そは延喜より後の事にぞ有けむ、延喜式までは、青馬とのみあれば也、さて然白馬に改められしは、いかなる故にか有けむ、詳ならざれども、源氏物語の榊巻の河海抄に、年始に白馬お見れば、邪気お去といへる本文、十節録にありと見え、公事根源にも、十節記とて引れたり、さるよしにやあらむ、されどなほもとの本文は、礼記の月令にて、孟春之月雲々、天子居青陽左個、乗鸞路、駕倉竜載青旗、衣青衣、服倉玉、とあるによれることなるべし、倉竜は青き馬なり、文徳実録にも助陽気也とあれば、白き馬にはあらず、青なりしこと決(うつな)し、貞観儀式には、青〈岐〉馬とさへあるおや、然るお後世までも、文には白馬と書ながら、語には猶古のまヽにあおむまと唱へ来て、しろむまとはいはず、白馬と書るおも、あおむまと訓によりて、人みな心得誤りて、古は実に青き馬なりしことおばえしらで、もとより白き馬と思ひ、古書どもに青馬と書るおさへ、白き馬お然いへりと思ふは、いみじきひがこと也、白きおいかでか青馬とはいはむ、