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比古婆衣
十一
七日の青馬白馬 正月七日青馬お御覧じ給ふ事は、万葉集に、水鳥乃、可毛能羽能伊呂乃、青馬乎、家布美流比等波、可芸利奈之等伊布、〈かぎりなしとは、命の限り無きよしお賀ぎたるなり、〉右一首、為七日侍宴、右中弁大伴宿禰家持預作此歌、但依仁王会事、却以六日、於内裏召諸卿等賜酒四宴給禄、因斯不奏、とあるぞ書にみえたる始なる、こは前に天平二年春正月三日、〈初子の日なり〉召侍従豎子王臣等、令侍於内裏之東屋垣下、即賜玉箒宴雲々、応詔旨、各陳心緒作歌賦詩、始春〈乃〉、波都禰〈乃〉家布〈能、〉多麻婆波〈伎〉雲々、右一首、右中弁大伴宿禰家持作雲々とある、さし次に載たれば、此巻の例に依るに、聖武天皇の御世、天平二年正月七日の事なり、此事これより前に始給へるにか、其は詳ならず、又其後相続て行はれしにや、それも考るところなけれど、うけばりたる恒例にはあらざりしにや、色葉字類抄に、本朝事始お引て、光仁天皇宝亀六年正月七日、天皇御楊梅院安殿、設宴於五位以上、已而内庁宴進青御馬、兵部省進五位已上装馬とあり、河海抄にも此文お引て、是青馬始也と注されたり、此事続日本紀には載られざれど、旧記の文ときこえて、実に此事の恒例として行はるヽ事となりたる始にぞあるべき、〈◯中略〉されど此後の御代々々に行はれたる事は、続日本紀、日本後紀等には載られずして、弘仁内裏式、弘仁十二年正月卅日撰上、正月七日の会式に、引青馬式お載られたり、水鏡に、弘仁二年正月七日、はじめて青馬おみそなはし給ひきと見え、詔運録嵯峨天皇の御譜に、弘仁二始覧青馬と見えたるおおもへば、中間廃られたりつるお、此時再興し給へるお、かくは記せるものなり、〈◯中略〉国史には続日本後紀より始て載られて、仁明天皇の御世、承和元年正月壬子朔戊午、〈七日なり〉御豊楽殿、観青馬宴群臣と見えたるぞ始なる、〈公事根源に、此時お始のごとく記されたるは疎なり、〉此後三年おおきて、同五年より七年まで行はれ、又中間八年おおきて嘉祥二年に行はれ、同三年には行はれず、但此正月の頃は、天皇不紓し給へり、〈三月廿一日崩給ひき〉次に仁寿元年の正月は、既に文徳天皇の御世となりて諒闇のほどなり、明る二年正月戊辰朔甲戌、〈七日〉幸豊楽殿以覧青馬、助陽気也、賜宴群臣如常と実録に載られ、相次て清和陽成光孝の三代の実録にも、恒例として廃えず載られたり、これによりて稽るに、仁明天皇の御世に停られたる事も有けれど、嘉祥二年より旧に復して、又恒例と為給ひけるが、上に雲へるごとく、明る三年は天皇〈仁明〉不紓ましけるによりて行はれず、遂に崩給ひ、文徳天皇御世お嗣まし〳〵て、明る仁寿元年の正月は、諒闇に坐ましければ行ひ給はず、その明る二年に、其式お相継て行はれたるなり、故其事お載らるヽ御世の始なれば、覧青馬助陽気也と、其覧給ふ謂お記して、賜宴群臣如常と言分て記され、〈此日賜宴の事は旧儀にて、青馬お覧給ふにつきての事にはあらず、〉それよりうち連続て行はれたる事お、年々載られたるおもて知るべし、〈◯中略〉青馬は、儀式の青馬儀の条の宣命に、常毛見留、青岐馬見太万閉退止為氐奈毛雲々、弘仁内裏式、内裏儀式、延喜式等に載られたるも同じくて、〈◯中略〉そは或は葦毛とも雲ふ毛色とぞきこへたる、和名抄に、爾雅注雲、菼騅〈今按、菼者、蘆初生也、吐敢反、俗雲葦毛是也、〉青白如菼色也とある毛色にて、白馬毛付奏文にも、葦毛と書例なるおもおもふべし、〈◯中略〉さてその青といひ、葦毛ともいふ毛色お、又或は青鷺毛ともいへり、其は新撰六帖の歌に、あお馬お題にて、右京権大夫源信実朝臣、見渡せばみなあおさぎのけつるめお引つヾけたるうま司かな、とよまれたるおもて知るべし、〈◯中略〉然るお後の御世となりて、青馬お白馬に更て覧し給ふ事となれり、其は醍醐天皇の御世、延長の末つ方よりの事なるべし、然稽へたる由は、延喜五年八月詔ありて、延長五年十二月に撰集して奏進られたる延喜式に、正月七日青馬雲々、また青馬二十匹、自十一月一日至正月七日半分飼之とあるに、紀貫之朝臣の延長八年正月、土佐守に任されて彼国に下り、〈京お発たまへる日頃は詳ならず〉任畢て上京の時の、土佐日記承平五年正月七日の条に、〈◯中略〉今日はあおむまなどおもへどかひなし、たヾ波のしろきのみぞ見ゆると、書れたるおおもへば、延長八年の頃には、其儀の名目にはなお青馬と唱へながら、既に白き馬お換用ひ給ひたりし事決し、然るに延喜式撰ばるヽ時、既に白馬お用ひられたらむには、其馬おさして青馬と書るべき謂なし、〈寛平御記にも、礼記に拠りて以青馬七匹雲雲と記し給へる事、上に引たるがごとし、〉しかれば延長六年七年八年の三年が間にぞ更へられたりけむ、さらずば延喜の末つ方より更られたりけるお、式撰集の間、既に旧式お載おかれたるまヽにて、訂し漏されたるにぞあるべき、〈◯中略〉故延長の末よりの事なるべしとは雲ふなり、又平兼盛朝臣集に、あおうまお題にて、降雪に色もかはらで引ものおたれあおうまと名づけそめけむ、と雲ふ歌みえたり、此ぬし天暦年中越前権守に任され、従五位上駿河守まで進みて、正暦元年に卒り給へり、貫之朝臣には、凡三四十年ばかり後れて壮なりし人なるべし、〈◯中略〉さて遂に其青馬儀の字おも白馬と改られたり、所謂白馬奏、白馬節会などこれなり、されど白馬と書ても、詞にはなほ旧のまヽに、あおうまと唱ふ例なり、〈◯中略〉かくてしか白馬と書たる事の書に見えたる始は、西宮記七日節会条、左右御監白馬奏とある方始なるべし、〈◯中略〉村上天皇の天暦元年正月七日癸巳、白馬宴ありと書るお始にて、次々皆白馬と書き、其外の書ども、また家々の記どもにも、延喜より後のものには、皆白馬と書て、青馬と書るは、おさ〳〵ある事なし、〈◯中略〉さて然白馬に更給へる謂は、年中行事秘抄に、正月七日白馬事、十節記雲、馬性以白為本、天有白竜、地有白馬、是日見白馬、即年中邪気遠去不来、〈公事根源、河海抄等にも、此文お引れたり、〉など雲るかたの説に、さらに拠り給へるものなるべし、