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用捨箱

お事始 節供といふは、此日必神に物お供する設なんどなすにより、如此いふよしなれば、節供といひて食物の事とせば、理なきにもあるまじけれど、女童は唯式日の事とおもひ、節とのみいへば、却て正月式日の食物の事と思ひあやまれり、お事といふも、彼お節といふに斉く食物の事にて、是は僧家より起り、在家に移りし歟と思はるヽ事あり、無住雑談集三巻に、昔は寺寺隻一食にて、朝食一度しけり、次第に器量弱くして、非時と名づけて日中に食し、後には山も奈良も三度食す、夕のおば事と山にはいへり、未申の時ばかりに非時して、法師原坂本へ下りぬれば、夕方寄合て事と名づけて、我々世事して食すと雲りといふ事お載たり、按るに、十二月は日の短き頃にて、年の暮は事せはしくなる故に、八日お限り二食となるが、当時の僧家の風俗にして、事納めととなへ、二月は日も漸ながくなれば、八日より三度食する故に、事始といひしにはあらずや、〈二月八日は、周正に依ば釈迦仏生日なり、十二月八日は浴仏日なる事、事物紀原に見えたれば、此日お用ひし歟、〉此日調ずる汁おお事煎といふ、〈従弟煎、意得煎、ともに附会の説なるべし、〉芋、牛房、人参やうの物に、粒赤大豆おいるヽ〈近年はさヽげ〉おもて、又案るに、赤小豆の汁に、醤油お和して煎たる豆腐お、黄檗豆腐といふ、お事煎もその類にて、赤小豆にて味おつくるは、僧家の食物なればなるべし、古風お守る家にては、此汁夜食に調じて朝は調ぜず、その原は知らずして、自然に昔風俗の残りしにやあらん、雑談集に、山といへるは叡山の事なり、彼所に事始事納の久しく伝はりてありしが、故ありて寛永中より、江戸の在家へ移りしなるべし、是はとりわけ証拠もなき異説なれど、思ひいづるまヽに書載ておきつ、扇の透へ捨給へ、
江戸鹿子、〈貞享〉二月八日事初、〈江府中にて籠おつるなり〉十二月八日事納、〈上同〉
誰袖の海、〈宝永〉吉原の事おいふ条に、二月八日事初、師走八日事納めといふ、此日吉原にかぎらず、棹のさきへ〓(いがき)つけて出す、京の卯月八日の如しとあり、今の俗は二月お事納、十二月お事初とおもふもあるめり、正月の式にかヽはりし事にはあらず、二月が事初めなりといふ証に録す、〈◯中略〉
万世節用集広益大成〈宝永三年印本〉に載たる年中行事月並世話
二月八日御事といふ事、〈極月八日門戸に籠おつる事〉字彙、事は業也と雲々、二月お事はじめ、十二月御事おはり、田家にてなす事なり、土佐日記注に雲、節忌也、精進おするといふなり、春は農事のはじめ、冬はおはりなれば祝義なり、八日は斎日の中なれば、たま〳〵此日お用ひきたる事ならし、戸口に籠おつるは、籠の目といへば、方相の目になぞらへ、邪気おはらふ事なり、〈金葉〉逢事の今はかたみの目おあらみもりてながれん名こそおしけれ、方相は邪気のおそるヽ物なれば、其面おかけて、儺のとき追はらふ事なり、或説に、籠おつる事は九字の形なり、籠に似たる九字とは、臨兵闘者、皆列前行の九字也、道字の秘呪なり、今は仏家にも用るなり、居家必(きよかかならず)用ゆと雲、縦横之秘法門〓〈門内に立てこれお呪すと雲々、これ九字と同心也、かごおつる事は縦横のかたち也、以上月並世話に見ゆ、画もすき模にしたるなり、〉農家になす事なりといひしは、予〈◯柳亭種彦〉が推考とは異なれども、此説凡よかるべし、〈此後の冊子には、種々の説あれども、唯人おどしなる古書お引たるのみ、当れりとも思はれず、故にここに不載、〉籠の目の事は、こヽに雲或説と、予が聞しと略同、〈按るに、此書の作者も、老人の伝へお聞しが、九字とのみにて、晴明九字の事お聞もらし、籠目にては〓に似ざるゆえ、味噌漉と二つ画しなるべし、〉江戸鹿子に籠おつるとありて、此書と同、されば画の如く門へ釣、又今のさまに棹にて高く出しヽは、袖の海にて明なり、〈此草紙の作者は、由之軒とて京の者なり、古郷の人に江戸の風俗お知らせんとて、都にては、潅仏の日、つヽじの枝お棹へつけて出すゆえ、卯月八日の如と記たるなり、〉三州の事は知らず、遠州にて節分の日、棹に笊おつけて出すおば、したしく見たりと、友人の物がたれり、江戸にてかの追儺に、薄き板に晴明九字お書、それと柊お門戸へさし、赤鰯お用ひざる旧家あり、〈ある島国にて、いと暗き夜、鬼の遊行するとて、戸外へ出ざる事のあり、其夜さりがたき用あれば、目籠お持て出るなり、さすれば禍なしと、かの島人の話なり、〉それかれ思ふに、節分に〓は出すべきお、お事の日にあやまりしといふ説は是なるべし、