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善庵随筆

春秋の二分は、日正東に出でヽ、正西に没する故に、天竺の俗、これお時正といふ由なれども、此時に彼岸会お修することは、仏経に所見なし、〈但し立世阿毘曇論には、二月春分お以て為歳首、是劫初に日月下生の日とする故に、彼論の日月行品に雲、是時最初日月下生世間、相去甚遠、日下東弗婆提中央、月下西瞿耶尼中央、爾時光明遍照、満四天下、日照一半、月照一半雲々、是故梵暦には、春分お以為暦元、宿曜経雲、上古白博又二月、春分朔、于時曜〓婁宿、道斉景正、月中気和、庶物漸栄、一切増長、梵天歓喜、命為暦元、已上、又雲、大唐には、以建寅為歳初、天竺には、以建卯為年首雲々、是乃唐土日本の春分は、天竺の歳首なる故に、世俗皆祝之、仏家には是日お為吉日なり、八月秋分には、日輪又再び赤道線お通る故に、時刻春分に同じ、天竺には為自資時也、但彼岸と名くる事は、一向無拠、〉十六観経の日想観の文に、正坐向日、諦観於日、専想不移、見日欲没、状如懸鼔などありて、日想観は必しも時正に限ることにはあらざれども、浄家にて、時正は日正東に出でヽ、正西に没すれば、日想観の時節とせるより、其徒この時に乗じて、一七日の法筵お開き、談義説法し、没日お観念するより、西方浄土お識知せしむるの因お以て、彼岸会とは名づけし、この彼岸会お暦に載する故は、昔時談義説法は、比叡山の阪本に限り、廿一箇所の談義所ありて、能弁の僧出席して説法することにて、他の寺院などには絶てなかりし故に、都鄙善信の男女、阪本に群集して聴聞するもの、彼岸の時節お弁知せずして、毎度迷惑せしゆへ、叡山より暦家に請て、暦本に書き載せもらひしより、いつとなく時候の様になりたり、〈◯中略〉仏説彼岸功徳経、竜樹菩薩天験記などに説く所は、杜撰附会、歯牙に掛るに足らず、前文の次第ゆへ、昔は春分秋分の日お彼岸の中日に当る様にせしと、安倍家の暦本に見へしよしと、塩尻に雲へり、左もあるべきことにぞ、今は春分より六日まへ、秋分は二日まへお彼岸に入る日とす、〈榊〓談苑に、春秋分の後二日お、彼岸といふ事は、いつの頃よりいひ出でけるにや、行幸のまきに、十六日彼岸のはじめにてとあり、蜻蛉日記にも、彼岸といふこと見ゆ、〉暦家の説に、二十四気お一年に割付る、平実の二法ありて、本朝の暦は平気お用ひ、唐土の暦は実気お用ゆ、故に本朝の春秋分は平気にして、実の春秋にあらず、実の春分は、平春分より三日前、実の秋分は、平秋分より三日後にあり、実の春秋分は、太陽赤道お行き、昼夜等分ゆへ、此日お彼岸の中日に当てヽ、平春分より六日前、平秋分より二日前お彼岸に入る日とすることなり、本朝の暦、天保八年丁酉、春分は二月十七日、彼岸に入る日は十二日、秋分は八月二十二日、彼岸に入る日は二十一日なるお、唐土の暦にては、道光十七年丁酉、春分は二月十五日、秋分は八月二十四日、即ち彼岸の中日なり、これにて知るべし、
◯按ずるに、当時は春秋二分の日お以て、必ずしも彼岸の中日に当てざるものヽ如し、右の天保八年の外、数十年の暦日お査するに皆然り、例へば享保十三年は、二月十二日春分、十四日入彼岸、八月十八日秋分、二十日入彼岸、宝暦十年は、二月二十二日入彼岸、二十七日春分、八月三日入彼岸、四日秋分、文化十一年は、正月大にして、其二十七日入彼岸、二月二日春分、八月八日入彼岸、九日秋分なるの類なり、