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古今要覧稿
時令
あやめのこし〈菖蒲輿〉 あやめのこしは、五月三日平旦、六衛府より禁中へ奉れり、薬玉料昌蒲蓬、〈総盛一輿〉と、〈延喜近衛府式〉みえたるお始とせり、これよりして、あやめのこしの名目おこれる也、六府立昌蒲輿瓫花〈各一荷、花十捧、〉南庭と〈西宮記〉見えたり、又しやうぶのこし、さうぶのこしともいへり、いはゆる五月五日になりぬれば、御薬玉、しやうぶのこしなどもてまいりたるもと〈世継物語〉見え、又三条の宮におはしますころ、五日のさうぶのこしなどもちてまいりと〈清少納言枕双子〉見え、五月四日夕つかたに成ぬれば雲々、さうぶのこし、朝がれひのつぼにかきたて〳〵、殿ごとに人々のぼりて、ひまなくふきしこそ、みつのヽあやめも、今はつきぬらんとみえしかと、〈讃岐典侍日記〉かけるによれば、くす玉の料、あるは御殿ごとにふくあやめお、輿につみてかきもてありけば、とりまはしよき故に、設けられしものなり、しかるお後世はさなくして、別段あやめのこしおつくりなせり、これお菖蒲の御輿とも、又あやめの御殿ともいへり、其製法は、以連根菖蒲為棟梁、且以細木為柱造小殿形、以桧葉并菖蒲蓋殿宇と〈日次紀事〉見え、菖蒲の御殿とは、菖蒲お以て小き殿お作り物にして献之と〈故実拾要〉見えたり、昔は六衛府より奉りしかども、近世は東坊城家より献ぜらるヽよしなり、菖蒲の御輿お、昔は六府〈左右近衛、左右衛門、左右兵衛、〉より調進せし事古記にみえたり、近代は東坊城家より献ぜらると〈夏山雑話〉見え、菖蒲輿、東坊城家人副衛士土佐調進、下行壱石と〈年中下行帳〉見えたり、黒川道祐説に、菖蒲御輿料木、自梅畑供御人納今出川家、即遣衛士、衛士作之と〈日次紀事〉見えたり、古製は山岡俊明説に、菖蒲のこしは、五月端午禁裏の宮殿へふき、又薬玉などの料にあやめお持まいる時、車に積て来る、それお輿とはいふなりといへるぞ穏に聞え侍る、さすれば別段ことやうにつくりなしたるものにはあるべからざるにや、しかはあれど、ふるき図式なければ、其製作しるべからず、雲図抄に、あやめのこしすえし場所の図お載たれど、輿の図は見え侍らず、近代のものは、藤井家調進のよし伝ふる図あり、これ和土記、故実拾要などにいふ所の説に粗あへり、これおあやめの御殿ともいへり、そのさまは、二本柱にして屋根あり、小殿の形ちお作りなせるものなり、やねの四すみ棟等の六所には、蓬あやめおさすよしなり、さて和土記、文亀三年五月五日の条に、あやめの輿おつくれる木材お、八瀬より調進する事見えたり、其調の材おもてつくれるあやめのこしならば、藤井家調進の二本柱につくれる輿の説にあへり、文亀三年より今茲天保辛丑迄、三百四十二年に及べり、またはるかに後れて、延宝の頃は、あやめの根お以て棟梁となすと〈日次紀事〉記したれば、藤井家調進のものとは異なる様に推はからるヽなり、さて小殿の形おなせるものは、応永の頃よりありしとみえて、其体如屋形之飾菖蒲、是菖蒲輿也と〈薩戒記〉みゆれど、古代の輿の形、詳にしれがたし、猶考べし、