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古今要覧稿
時令
あやめのかづら〈菖蒲鬘〉 あやめのかづらは、五月五日未明、禁中に糸所より献ずるお、天子かけ給ひて武徳殿に行幸ましまし、例の節会行はる、内外の群官も皆かくる事なり、是は時の疫邪悪気などおさけんためにせしめ給ふ也、これ往古よりの仕来りなりしお、聖武天皇の御時の比は、既に此事廃せしとみえて、天平十九年五月、太上天皇〈◯元正〉詔に、むかしは五日の節、常にあやめおもつてかづらとなす、比来すでに停此事、今より後あやめのかづらにあらざるものは、宮中に入ることなかれと、〈続日本紀〉みえたるによれば、いづれの御代よりか、此事行なはれざりしお、此御時よりして、年々の五月五日には、文武群官、必ずあやめのかづらおつけて、宮中に出入せしめしより、定例となりし事、この詔にて明也、万葉集に、詔ありし年より四五十年前、あやめのかづらおよめる歌みえたり、則山前王の作歌に、ほとヽぎす、なくさつきには、あやめ草、花橘お、玉にぬき、かづらにせんと、とよまれたるは、文武天皇の御宇にてやありけん、山前王は養老七年十二月卒すとみえたれば、天平十九年にさきだつ事二十五年なれば、かにかく山前王の世にいませし比は、あやめのかづらお用ひられしこと、かの歌にてしられたり、又それより後、家持卿の歌に、あやめぐさかづらにせんひとも、菖蒲草よもぎかづらきとも読れたるによれば、よもぎおもあやめにそへて、かづらとせられしなり、しかはあれど、あやめの鬘製作の事、九条右相府記に、くは敷しるされたれど、よもぎお用ひられし事みえねば、時によりて其製作は異なりしにやあらん、延喜式、西宮記等には、内外群官、皆著菖蒲鬘とも、天皇出御著菖蒲鬘とのみにて、異なる事なし、小野宮年中行事には、くは敷しるされたれども、万葉集にみえし、花橘お、玉にぬき、かづらにせんと、よめる歌には合はず、これ皆時世によりてたがひあるのみ、