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大江俊矩記
寛政四年五月朔日戊戌、菖蒲枕献上、今年初年也、朝飯後青侍〈ふくさ麻上下〉長橋奏者所へ為持遣、
  菖蒲枕〈二把〉 一包〈元上々奉書、当時御省略中故、用次奉書、次奉書二枚重、白紅水引にて絬之、表書無し、〉
  二重繰目録台に乗せ
       〈下け札〉       大江とし矩〈上〉
右之通に仕立、献上相済、仙洞、女院、右同様、各後到可有披露旨、返答承り帰由也、
文化十二年四月十四日己巳、菖蒲枕之事不伺来故、今朝新町下立売経師五兵衛方へ申付遣処、昨年五兵衛病死、妻子分散、其後家大宮下立売の寺へ、台所賄に参居由、町之会所に而承帰故、又々其寺へ尋に遣処、今は其寺にも不居、新烏丸夷川辺に宿有之間、其宿に而可尋合、其寺に而被教、下の町へ罷越漸尋当り、裏屋に後家一人居候由、仍菖蒲枕之事相尋処、猶相しらべ明日有無之御返事、可申上由承帰也、 十五日庚午、表具屋源七〈当時高辻通油小路西へ入所に住居雲々〉来、是経師吉兵衛忰也、親吉兵衛前廉菖蒲枕年々調進候処、吉兵衛死去後は相続難仕、右菖蒲枕之形、経師五兵衛へ預け置、此者より年々調進仕候処、右五兵衛儀も昨年病死仕、相続難仕候に付、則菖蒲枕之形、私方へ相戻し申候故、当年より私調進仕候間、不相替御用被為仰付被下度奉願候、猶自先日罷出、此段御断申上可相伺心得に罷在候処、日々多用に取紛、且遠方故、一日々々延引仕候処、昨日御使被成下候由、五兵衛後家より申聞に付、不取敢今日御伺参上仕旨申来也、仍吉兵衛儀は、前廉調進候事、当家にも存居事故、無子細之間、如前々当年より可調進、当月二十五日迄に可相納様申付了、猶来年よりは四月差入に可伺出旨申付置候、畏入候由申之、且又仕立之事、大様相覚居候得共、久敷不手掛候故、重子の色目不分明之由相尋に付、古き薄様之折形見せ遣、一覧して帰候、 十三年五月一日庚辰、菖蒲枕今日令献上、 禁中東宮〈已上附長橋奏者所献上〉中宮等三御所也、如昨年〈高貴宮、猗宮等不及献上、依雖儲君親王宣下以前不献也、〉以次奉書二枚包之、以白紅水引二把結之、居二重繰目六台、下げ札大江とし矩〈上〉と認、三御所共同様令献上、一昨年之通也、長橋奏者所取次荒木大江之助、中宮御所奏者所取次茨木安太郎使〈平松道次、著服紗麻上下、〉例年之事故、一統可及披露由、即席返答申之由也、