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鶉衣
前編上
隅田川凉賦
水無月のあつさの、けふことにさめがたければ、いざ隅田の川風に、扇やすめばやと、牛込といへる所より舟出してまづ凉し、〈◯中略〉数々の橋こへ過、両国の河づらにこぎ出れば、風はかたびらの袖さむきまで吹かへすは、秋もたヾこの水上より立初るなるべし、椎の木の蝉、日ぐらし、けふもくれぬと諦すさみ、岸の茶屋々々、火影おあらそふほど、今戸あたりのかけ船も、ともづなお解、糸竹おならして、おのがさま〴〵にうかべ出ぬ、京に四条の床おならぶるより、援に百艘のふなばたおつらねたるは、誠に都鳥の目にも恥ざるべし、舟として諷はざるはなく、人として狂せざるなし、高雄丸の屋形の前には、花火の光もみぢお散し、吉野屋が行灯の影には、樺焼のけぶり、花よりも馥し、幕の内の舞子は、鶯声聞にゆかしく、舳先の生酔は、鵆足みるにあぶなし、伽羅薫物のかほり心ときめきて、吸物かよふ振袖は、燭台のすきかげいとわかく、大名の次の間には、袴著たる物真似あり、女中の酒の座には、頭巾かぶりし医者坊あり、かしこにどよむ大笑ひは、いかなる興にかあらん、こヽに船頭のいさかふは、何の理屈もなき事なり、老人の碁会は、仙家のかげおうつし、役者の声色は、芝居もこヽにうかぶかとうたがふ、卵子々々、田楽々々、瓜西瓜、三味の長糸、売る声西南にかしかましく、東北に漕めぐる、風呂おたく船、酒おうる船、菓子にあらぬ饅頭あり、鼔にあはぬ曲舞あり、あるはみめぐり、深川にうかれ、あるは両国の橋にとヾまる、遊ぶ姿こと〳〵なれども、たのしむ心ふたつにならず、〈◯下略〉