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輪池叢書

嘉定 嘉定、何代より起るといふこと未詳、或は平城天皇の大同中よりといひ、或は仁明天皇嘉祥元年よりといひ、又は後嵯峨院御宇よりともいひ、一説には、室町殿の御時よりともいひ、一説には、元和元年大阪事終りて、京師へ入せられ、初ての賀儀なりともいへり、諸説区々にて一決しがたく、かつは妄説信じがたし、其うち室町殿の御時よりと雲説お信ずべきにや、道春先生曰、近代俗雲伝ふるは、室町家の時、六月納凉の遊興あり、楊弓射負たる者、嘉定銭十六文お出して食物に代て、勝たる者おもてなすに始れり雲々、本説たしかならざる事也、弘賢謹按ずるに、本説たしかならずといへども、是お以拠とすべき也、其ゆへは慈照院殿御代年中行事、ならびに申次記、及享禄三年以前の年中出御対面の記、其他此時代の諸書に所見なくして、蜷川親俊の天文日記には毎年記せり、此日記残欠三冊あり、天文八年六月十六日、嘉定いりこのふとにと書し、十一年には、嘉定如恒例認之と記せり、しかのみならず、御湯殿上日記に、天文二十年六月十六日、長はしよりとし〴〵のごとく、かつうまいるとみえ、後円明寺関白〈兼冬公〉の世諺問答に〈〇中略〉みえたり、是も天文十三年の作なれば、此三書お以、道春先生の説お徴すべきにや、文安の下学集、壒囊抄、塵添壒囊抄の類には、所見なき事なれば、慈照院殿御代よりは後、天文よりは前に始りし事なるべき也、凡今の御代は、万の事室町の式お用ひさせ給へば、かたのごとくさる例おおはせ給ひしなるべし、或問曰、禁裏にも此事ありといふは誠にや、其式などはいかやうなるにや、答曰、当時年中行事〈後水尾院御製〉に見えたり、〈〇中略〉清閑寺大納言熙房卿説雲、御内々の諸家へ料進被下、〈諸家陪臣於御台所請取、白米三斗宛の由也、〉以彼料心次第菓子等進調、兼日銘々紙に裹み、御前へ持出被服之、〈大納言以下到殿上人〉其後謡三曲等と有之、〈第一大納言献之〉古は御酒お持出飲れたるも有之也、此儀何頃より始りたるや不分明由雲々、又女房私記、異本当時年中行事等にもみえたり、然れども内々の御儀なれば、柳原年中行事には記さず、ふるき年中行事には、まして所見なきことなれば、もしは武家の習おうつされしもしるべからず、問曰、武家の式、室町の御時の親俊日記にみえたるおもむきにや、今のごとく八種と定まりて、厳重に行はるヽは、いつの比よりぞや、答曰、くはしくしりがたし、但し駿府政事録慶長十七年六月十六日、嘉定如例雲々、珍菓、嘉肴、片木に如山積之、所候之輩頂戴之と見えたれば、此比より今のごとくの品々にて有けるにや、