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古今要覧稿
時令
たなばた祭 たなばたまつりの事、ふるくは書に見えざれど、七月七日織女祭と〈延喜式〉見えたるお初とせり、是より百四十有余年前、天平勝宝七年にはじまりしよし〈公事根源〉見えたれども、是お続日本紀にたヾすに、此事なし、七月七日乞巧奠雲々、天平勝宝七年勘文雲々と〈年中行事秘抄〉見えたり、これらによりて、此年織女祭のはじまれるよしお、一条禅閤のしるされしにや、又天平勝宝七年の勘文に、はじめてたなばたおまつれる事お書つらねたるお、兼良公は見給ひしによりて、公事根源にしるされしにや、此勘文いづれの書にいでたるや、いまだ見あたらず、しかはあれど延喜前より此事年々行はれけるによりてこそ、式にはしるされたれ、さて此御時より年々歳々に、祭器祭供等も追々設けられしと見えて、延喜式よりも江家次第に、種々の祭器お書載たり、くはしくは上に出せば略せり、さて織女祭お七夕祭といふは、七月七日の夕に祭る故にしかいへり、又乞巧奠ともいへる、是西土より事起れり、乞巧といふことも、唐土より事おこれり、七夕まつりともいふ也、香花おそなへ供ぐおとヽのへて、庭上にふみお置て、さほのはしに五色のいとおかけて、一事お祈るに、三年のうちに必協といへり、此故に乞巧と申なりと、〈公事根源〉いへり、扠たなばたまつりといふ時は、神祇にかヽはるごとく聞ゆれど、乞巧奠といふときは、さしたる祭祀とは思はれず、且その上神祇官年中行事に、たなばた祭の事見え侍らず、又さしたる恒例にもあらざるにや、諸家の年中行事に、乞巧奠の事おかきのせず、しかりといへども、此祭年々かくべきにもあらざるにや、諒闇時猶祭と〈江家次第、年中行事秘抄、〉みえたり、江次第にしるせるは、村上天皇天暦八年の例也、是は朱雀帝天暦六年に崩御し給へば、八年は諒闇の中なり、行事秘抄の方は、延久五年の例也、是は後三条天皇延久四年十二月、天皇伝位於太子、而明年五月崩じ給ふ、しかるお其年七月祭りし例お挙たり、又天暦八年より延久五年までは、百二十年の間也、後世いづれも此例によりて、諒闇おさけずして、乞巧奠行はれしと見えたり、又内裏有穢時猶祭と〈同上〉みえたるは、応和二年、貞元四年の例お引てしるせり、しかるおいかなる義にや、産後百日内乞巧奠有憚事お〈年中行事秘抄〉しるせる、是は元永二年五月、中宮於三条殿御産あり、其七月七日乞巧奠お行ひたまはざるよし〈同上〉しるせり、是五月より七月七日にいたりて、百日にみたざる故なり、