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古今要覧稿
時令
七月六日為乞巧奠例 七夕は七月七日の夕おいへり、しかるお六日お以て、牽牛織女の二星おまつる事あり、これ皇国にては中古行なはれし例あり、いはゆる争教七夕縮為六、更課秋風計会新と〈新撰朗詠〉みえたり、西土に此例多し、京口人七月六日為七夕、而常南唐重七夕、而常以帝子鎮京口、六日輒先乞巧と〈入蜀記〉いひ、古書皆以七月七日之夕謂之七夕、今北人即以七月七日之夕乞巧、詢其所自則有異端、静而思之、抑有由也雲々、北朝帝王必当七日而崩者、故其俗間用六日之夕、南人不為之忌と〈兼明書〉いへれば、当時かヽる事のありしによりて、六日お以て乞巧せられしと見えたり、又初六初七晩、貴家多結綵縷于庭、謂之乞巧縷、則当時初六初七両日、皆可乞巧と〈香祖筆記引東京夢華録〉いへるは、前の例とはいさヽか異也、これは六七両日ともに乞巧行はれし一例なり、しかるに乞巧に六日お用ひられし始は、たしかならざれども、五代にはじまりしと見えたり、唐世無此説、必出於五代耳と〈容斎三筆〉いへるおもてしられたり、此風俗四五十年にしてとヾめられしとおもはる、宋の太平興国三年七月の詔に、今之習俗多用六日非旧制也、宜復用七日と、〈同上〉禁じ給ひたるにてしられたり、また七夕改北俗用六日、太平興国三年七月乙酉、詔曰、七夕改用六日、宜以七日為七夕、頒行天下と〈琅邪代酔引詒謀録〉いへるは、同時同年の詔なれども異文なり、しかれども六日おとヾめられしは同義なれば、此年より以後は、六日お乞巧に用ひ給はざる事しるし、