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年斎拾唾

七夕 本朝の風俗に、七月六日夜、土民おほく野辺に出て、火おもやして、たはぶるヽ事侍り、是牽牛星お祭るなるべし、予〈◯恵空〉此夜二三子お誘引して、和歌山の城下お出て、北の方宇治川にあそびて、四方おのぞみければ、山の麓河の堤、さかりに火おたいて、秋の夜も昼かとうたがふ、一葉の軽舟おわたり、むかひの里粟村などよぎりて、大谷と雲村にちかづく、まぢかくよりて是お見侍に、里人続松に火おかヽげて、たがひにたヽかひあへり、予たちよりて、ひとりの老人にあふていはく、かく燃してたヽかふ火は、何の益ありけるにか、こたへて申さく、今宵たヽかひて勝理お得たる里には、当年の秋の田よくみのりて、世の中ゆたかなる事おおぼゆ、又此続松の灰おとりて、明日の朝、牛の鼻にふれ、或は今宵牛に水おあみせて、此火にてあたヽむる事あり、みな牛の病ひおさけんがためなりと、かたりおはれり、五畿内、其外近国所々に、此風俗ありときこゆ、愚案ずるに、石申暦星経に、牽牛六星は、牛おつかさどる星也、春夏は木の姓おそなへ、秋冬は火の姓ありといへり、故に七月七日は、牛女の二星おまつる日なるにちなんで、前の夜より火おたきて、牽牛おまつり、耕牛の恙なき事おいのると見えたり、漢武帝の正月十五日に、太乙星おまつられしも、火お焼ておこなはれしとあり、〈◯下略〉