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古今要覧稿
時令
七遊〈七物〉 七月七日七遊といふ事、ふるくは物にみえざれども、此事のはじまれるは、南北両朝の頃よりや初りけん、其証は七月にもなりぬ雲々、七日は七百首の詩、七百首の歌、七調子の管絃、七十韻の連句、七十韻の連歌、七百の数のまり、七献の御酒なりと〈おもひのままの日記〉みえたり、〈此日記は、後普光園院摂政良基公のしるさせ給ふ所なり、〉此説によりて、此公の暦年おおしはかるに、貞和二年に関白にならせ給ふ、貞和二年は建武に後るヽ事、十一二年なれば、此以前より此遊びありし事しられたり、しかはあれど、此日記に年月おしるし給はざれば、若年の時しるし給へるや、晩年に及たまへる時なるやいなやはしるべからざれど、嘉慶二年に薨じ給へり、嘉慶二年は後小松天皇の在位の中なり、後小松院御代七物といふ物の興行ありし事あり、享徳三年七月七日丁巳、抑今夕於禁中七物七〈以上五十歟〉御楽可有之由被定、此事後小松院御代被興行之後中絶と〈康富記〉いへり、後小松院の至徳元年より、上にいふ所享徳三年までは七十一年なり、此年暦の間いつの頃よりか中絶したるお、ふたヽび興行せられしとみえて、洞院内府有申沙汰、既可有之由治定と〈同上〉記したり、又文明十二年七月七日晴、今日有七種事と〈親長卿記〉見えたるは、享徳三年に後るヽ事二十六年なり、又七種法楽、七色御手向といふ事あり、永正十五年七月七日、〈上略〉又於此亭〈大納言方〉七種法楽と〈宣胤卿記〉みえたり、天正十八年七月七日、七色御たむけとて、御歌、鞠、御碁、花、御貝おほい、御楊弓、御かうありと〈御ゆどののうへの日記〉みえたり、これらの二箇条は、二星にたむけの為に設けられし事とおぼしき也、桃園院御代には七遊とて、詩歌管絃おはじめ、七種の御遊びあり、御当代は御沙汰なしと〈恒例行事略〉いへるは、もつともちかきこと也、さて諸家の日記によりて考ふるに、七遊の事はおもひのまヽの日記にはじめてみえ、それより後は、御代御代或は廃し、或は行はれしとみえて、此事後小松院御代、被興行之後中絶と〈康富記〉記せるにてもしらる、扠また七つ物といひ、七種の事といひ、七色の御遊といひ、七遊といふ名はかはりたれど、いづれもおなじ意なるべし、これらは其御代其時によりて異なるなり、故に後普光園院の御記には、七百首の詩、七百首の歌、七調子の管絃、七十韻の連句、七十韻の連歌、七百の数のまり、七献の御酒と、こと〴〵く七数おそなへて、遊お設けられしかば、七遊とこそいふべけれ、以下はたヾ七種の遊お設けられしのみなれば、七つ物といひ、七種の事といひ、けふの御遊七色などヽありて、七数お用いざるは、時の興廃によりてかはれる也、親長卿記には鞠、楊弓、楽、郢曲、和漢五十韻、和歌七盃飲とみえたるお以ておもふに、七の数お用いたるは、七盃飲の名のみ也、和漢五十韻とあるにても、他は七数お用いざる事しられたり、諸家の記に御遊の品異同まち〳〵なり、此等の事は其時代時宜によれば、彼お是とし此お非とするにも及ばじ、偖又いつの比よりか始りけん、此日飛鳥井家、難波家蹴鞠の会あり、又六角堂池坊、東西両本願寺立花お設るよし、〈日次紀事〉しるせり、これらも七遊より事起れる也、鞠、花は七物の数の中なれば、さもあるべし、扠凡の物多くは西土より事起りて、皇国に伝りぬれど、皇国のみにありて、西土にしらぬ事まヽあり、これ風俗のしからしむる所にして、国異なれば物異なる理なり、これらのあそび西土にてしらざる事は、彼土の書籍中に一もうはさなきによりてなり、